「頭痛にノーシン」で有名な株式会社アラクスは、嘉永6年(1853)の創業である。
株式会社アラクスの創業者は「長七」という。文政4年(1821)に海東郡津島村(現・津島市)で生まれ、名古屋京町(現・名古屋市中区丸の内3)の薬種商の店に小僧として住み込んだ。
長七が別家を許され、独立したのは32歳の時、「鎰長」という商標だった。これがアラクスの創業である。商売を始めて営業が軌道に乗り始めた頃、京町全体を焼く大火があり、長七の店も全焼してしまった。このように苦難もあったが、長七は尾張徳川家相伝の万能薬「紫雪」の原材料を扱い、薬種業者の中心に食い込んでいった。
長七は明治3年(1870)に死去した。二代目芳太郎は跡を継ぎ、その頃から浸透し始めていた洋薬の販売に乗り出した。日本は長年の鎖国により無菌状態になっていたので、外国人が来るようになってから、新しい疫病に侵された。その治療のため、外国の薬、洋薬が必要だった。
この二代目芳太郎は病弱だったため、店を相続して6年後に亡くなってしまった。そこで長七の妻くにが三代目当主になった。このくにが動乱の時代を乗り切っていくことになる。このくにの踏ん張りなくして今日のアラクスはない。
時代はずっと後になるが、長七の店「鎰長」は大正6年(1931)に個人商店から合名会社に組織変えして「荒川長太郎合名会社」になった。例の有名な頭痛薬「ノーシン」を売り出したのは大正7年だった。著者は、現社長の七代目荒川愼太郎氏に「会社がこんなに長く続いた秘訣は?」と質問した。その答えは「ノーシンを売り出したからだ」というものだった。ノーシンは、会社の屋台骨を支えるくらいのヒット商品となったが、その処方は時代とともに、有効性・安全性を併せ持った新しいものに幾度も変更されており、ノーシンはそのたびに新しい製品に生まれ変わってきたという。このノーシンを売り出したのは、五代目の荒川長太郎で、この五代目は家業を企業に変えたといわれるほど大きな足跡を残した。
「ノーシン」の命名は「脳が新しくなったように、スカっと頭痛が治る薬」の意味の“脳新説”とか、脳神経の薬を略した“脳神説”とか、中国の医薬の神様である“神農”をひっくり返した“農神説”などがあるが、定かではない。「頭痛にノーシン」というキャッチフレーズが最初に使われたのは昭和2年(1927)で、新聞広告で「頭痛にノーシン、泣く児に乳」と載せたという。
会社組織は、平成2年(1990)に「荒川長太郎合名会社」から「株式会社アラクス」になった。業務内容は家庭薬の製造販売であり、現在の主力商品は、鎮痛薬、便秘薬、妊娠検査薬という3つのジャンルに分かれているが、今後さらに新商品開発を進める方針だ。社員は約300人。本社は名古屋市中区。稲沢市に研究開発部や工場がある。[参考文献『荒川百三十年』]
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