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第1部 幕末の部

慶応3年(1867)
その11、大政奉還の大号令
――その時名古屋は・・・慶勝が新政府の議定に選ばれる

雄藩会議が開かれる

 慶応3年(1867)は、王政復古の大号令が出された年で、まさに幕末の動乱のクライマックスだ。ここに日を追って、動きを紹介する。

 同年1月、明治天皇が即位した。

 同年4月、維新実現のヒーロー高杉晋作が、肺結核のため下関で死去した。

 同年4月、薩摩藩が大軍を率いて上洛した。

 同年4月、龍馬は脱藩を許され、土佐藩海援隊長になる。しかし、大洲藩から貸与されたいろは丸と紀州藩の船が衝突して、いろは丸は沈没した。

 同年5月、雄藩会議が開かれた。参加したのは、島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城だった。この会議で久光は、慶喜が天皇の意向を無視して勝手に兵庫開港を外国人に約束したのは許しがたいと主張した。批判された慶喜は、その4人を二条城に呼び付け、会議を開いた。慶喜は口がたつので、一堂を圧倒してしまった。この雄藩会議は同月に解散になった。西郷隆盛や大久保利通らは、話し合いではらちが開かないと考え、武力倒幕を主張した。

 同年6月、薩摩は、家老小松帯刀邸に土佐の中岡慎太郎、板垣退助らを呼んで会合し、武力倒幕に土佐も参加することが決まった。この6月には、龍馬が長崎から大坂行きの船中で、後藤象二郎に「船中八策」を示している。

 同年6月、西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通・伊地知正治・山県有朋・品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。その後、西郷は江戸市内へ薩摩藩士を派遣し、放火や強盗などの破壊工作を行わせ、幕府を挑発した。同じく6月に、西郷が坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟らと会し、薩土盟約が成立した。[参考文献『幕末史』(半藤一利 新潮社)]

龍馬の案を元にした「新政府綱領八策」ができる

 慶応3年(1867)10月、土佐藩主山内容堂は、倒幕派と幕府との間の調停を買って出た。外国船がいる最中に内乱が起きたら、日本が危ういと考えての行動だった。山内容堂はもともと公武合体派だった。この調停は、土佐藩参政後藤象二郎が一つの案を進言したことにより、山内容堂がその気になった。その案とは、龍馬が後藤象二郎に話した「船中八策」だった。その中身は「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出ずべき事」など8カ条から成っていた。山内容堂は、この「船中八策」の内容を参考にして作成した「新政府綱領八策」を慶喜に進言した。その内容は、龍馬の案とほぼ同じだった。

 この頃までに薩摩は、長州、土佐、芸州(広島)との間に同盟を成立させていた。大久保利通と品川弥二郎は岩倉具視を訪ね、何がなんでも倒幕の火の手をあげようと相談する。岩倉は新政府の組織を構想していて、それを話した。そして錦の御旗を密かに作っておくことを命じた。もっとも、錦の御旗など誰も見たことがないので、想像して作ったという。[参考文献『幕末史』(半藤一利 新潮社)]

朝廷から倒幕の密勅が下りる

 慶応3年(1867)10月13日、朝廷から、薩摩藩主島津忠義と久光に対して、倒幕の密勅が下りた。その中で、将軍慶喜は「朝敵」と断罪された。

 翌14日、長州藩にも倒幕の密勅が届いた。薩摩と長州には、錦の御旗が下賜されるとともに、会津藩と桑名藩の両藩主のことを「その罪軽からず」と記し、討伐を命じた。

 同じく14日、慶喜は、山内容堂が伝えた「新政府綱領八策」の内容を気に入り、ついに大政奉還の建白書を朝廷に奏上した。この時慶喜は、朝廷から「倒幕の密勅」が出されていたことを知らなかった。大政奉還しても、結局、徳川家が実権を握ることができると考えての行動だった。

 翌15日、慶喜は御所に参内した。すると天皇の御沙汰書が用意されていた。天皇は、大政奉還をすぐに受け入れた。朝廷は、10万石以上の大名に対して上洛を命じた。この大政奉還の報せで、日本中が騒然となった。諸藩が様子見する中、11月中に上洛したのは、尾張、越前、安芸、土佐、薩摩と近畿地方の大名など16藩に過ぎなかった。武装して上洛するものものしい藩もあったが、尾張藩は平穏のうちにことを納めようとの姿勢があったので、藩兵を引率しないでの上洛であった。これを見た佐幕派や新撰組の面々からは激しい非難を浴びた。

 10月29日、薩摩は、倒幕のための戦争を決定した。翌30日には長州も開戦を決めた。

 11月18日、島津忠義が西郷隆盛を参謀に、3千人の兵を引き連れて三田尻に上陸した。

 11月15日夜、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された。

 11月29日、長州藩の先発隊800人が摂津の打出浜に上陸した。

 12月5日、尾張藩の重臣が岩倉邸へ呼ばれて、岩倉から王政復古のためのクーデター計画を知らされた。また、その場で王政復古クーデターヘの参加を勧誘された。熱心に勧誘された理由として、勤王の志の強い慶勝が実質尾張藩を率いていること、尾張藩は御三家の大藩で、東海道と中山道の中枢を領有し、諸藩への影響力が極めて大きいことが考えられる。

王政復古の大号令

 慶応3年(1867)12月9日、宮中で小御所会議が開かれ、明治天皇による御沙汰書の形式で、王政復古の大号令が発せられる段取りであった。それまで御所を警護していた会津・桑名の藩兵と代って、午前9時すぎには、薩摩藩兵が繰り出し、尾張、越前、安芸の各藩兵も宮中と宮門の要所の配置についた。

 同日、岩倉具視はすべてを許され、再び参議となって朝廷に出仕すべしという勅許が下された。岩倉は用意していた「王政復古の大策」を天皇に上奏した。天皇は、この日のうちに「王政復古の大号令」を発した。朝廷は、摂政関白、右大臣、左大臣などこれまでの朝廷の官職をすべて廃止し、新たに総裁、議定、参与によって政治が行われると発表した。この時から新政府の運営の形が決まった。その顔ぶれは次の通りだった。慶喜は会議に加わることすらできなかった。

総裁=有栖川宮熾仁親王
議定=仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、島津忠義、徳川慶勝、浅野長勲、松平春嶽、山内容堂 
参与=岩倉具視、大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、橋本実梁ほか、尾張藩士3人、越前藩士3人、広島藩士3人、土佐藩士3人、薩摩藩士3人

 18時頃から、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、新体制として最初の三職会議が開かれた。前述の総裁・議定・参与のほか、諸藩から幹部が加わった。尾張藩からは、丹羽賢、田中不二麿、田宮如雲が参加した。

 岩倉らは徳川政権の失政を並べ「辞官納地をして誠意を見せることが先決である」と主張する。山内らは慶喜の出席を強く主張して両者譲らず、遂に中山忠能が休憩を宣言した。同会議に出席していた岩下左次右衛門は、西郷に助言を求めた。西郷は「短刀一本あれば事が足りる」旨を述べ、岩倉を勇気づけた。再開された会議では容堂はおとなしくなり、岩倉らのペースで会議は進められ、辞官納地が決定した。

 12月12日、慶喜は二条城を出て大坂城に移った。[参考文献『幕末史』(半藤一利 新潮社)]

新政府樹立に参加した尾張藩の重臣達

 ちなみに、尾張藩士として小御所会議に参加した3人の経歴は、次の通りである。

田中不二麿明治維新後も活躍した数少ない
尾張藩士の一人である田中不二麿

■田中不二麿
 子爵。明治維新期の著名人物としては稀少な尾張藩出身者の一人である。
 尾張藩士の家に生まれた田中不二麿は、尾張藩の藩校・明倫堂で和漢などを学ぶうちに勤王思想に傾倒していった。成績が優秀であった不二麿は、やがて藩参与に取り立てられる。この時、尾張藩内部でも尊皇攘夷派と佐幕派に分かれて対立していた。

 不二麿は尊王攘夷派の金鉄組に属し、丹羽賢や後に名古屋市長となる中村修らとともに、尊王攘夷の建白書を藩に提出するなどの活動を行った。慶応4年(1868)に城下を震撼させた青松葉事件によって佐幕派が弾圧されると、時の藩主徳川慶勝の右腕となり、その名が広く知られるようになった。

 新政府が樹立すると明治4年(1871)に文部大丞に任命され、岩倉具視のヨーロッパ使節団で文部理事官として随行した。その後も明治7年には文部大輔となり、明治12年に教育令の建白に携わった。明治24年、第一次松方内閣の司法大臣を拝命した。明治42年に65歳で没。

■丹羽 賢
尾張藩の勤王運動家、明治期の官吏。

 尾張藩士として弘化3年(1846)に生まれ、6歳の頃から名古屋の勤王思想家国枝松宇の私塾で四書五経を学ぶ。田中不二麿や中村修と国枝私塾で知り合い、親交を結ぶようになる。父の江戸勤務に従い、江戸へ出て国学家の松本奎堂に師事するうちに尊王攘夷運動家となり、田中不二麿、中村修、田宮如雲とともに藩内の倒幕運動に取り組むようになる。

 藩主徳川慶勝の信頼を得て、公卿諸候への工作などを行う。慶応3年(1867)、藩校明倫堂の教官となる。明治維新後は東京府判事摂行、名古屋藩大参事を、明治4年(1871)の廃藩置県後は安濃津県参事、明治5年には三重県権令、司法少丞と権大検事、明治8年には司法大丞を務めた。明治11年に重い病を患い、33歳の若さで没した。

■田宮如雲
尾張藩の家老で、尊王攘夷派である金鉄組の旗頭でもあった。十一代藩主斉温に嫡子がなかったため、尾張藩支藩の高須藩から慶勝を藩主に迎えようとしたが失敗。その後、慶勝が十四代藩主となると、慶勝は如雲を重用し藩政改革の推進にあたらせた。

 幕府の大老井伊直弼らが政策に反対する者達を弾圧した安政の大獄で、慶勝が隠居謹慎処分になると、如雲も名古屋御器所村に幽閉された。しかし文久2年(1862)に慶勝が赦されると、如雲も側用人として復職した。第一次長州征伐で慶勝が総督に任命されると側用人として参加。この時如雲は戦端を開くことなく事態を収拾した。

 慶応3年(1867)11月、慶勝に従い上洛し、明治2年(1869)の版籍奉還後、名古屋藩知事徳川義宜の下で藩政改革に従事。明治4年に64歳で死去した。[参考文献『三百藩家臣人名事典』(新人物往来社)]

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