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第2部 江戸時代初期の部

慶長19年(1614)
その1、家康が大阪の陣で豊臣を滅ぼす
――その時名古屋は・・・城の造営が始まる

大坂の陣

 家康は関ヶ原の戦い後、伏見城・二条城・彦根城・名古屋城の大改修など、諸大名を動員した建築事業、いわゆる天下普請を行った。名古屋城普請の際には豊臣家へも動員が命じられたが、豊臣秀頼の母淀殿がこれを拒否した。

 豊臣側のこうした態度を怒った家康は、合戦を決意した。大坂冬の陣の始まりである。家康は慶長19年(1614)10月、軍勢を率いて駿府を出発した。徳川方は、大坂城を約20万の軍で完全に包囲し、攻撃を開始した。すさまじい攻撃に恐れをなした淀殿が和議を望み、戦いは一旦終結した。

 和議の条件として、家康は豊臣側に対して大坂城の外堀を埋めることなどを要求した。これに対して豊臣側は秀頼の身の安全と本領の安堵を求めた。これにより和議は成立した。一応、和議を結んだものの、翌年には再び、合戦に向けた動きが慌ただしくなった。慶長20年(1615)4月、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。義直は家康の九男で尾張藩初代藩主である。名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われた後、家康は二条城に入った。

 その後、家康は軍勢を引き連れて大坂に向かい、再び大坂城を包囲した。本丸以外の堀を埋められた大坂城は、もはや殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。この夏の陣では、義直率いる尾張藩は、家康・秀忠の本陣を守る後詰の役を、紀州藩の徳川頼宣とともに果たした。

清須越と名古屋城の築城

 尾張の中心は、長い間清須であった。しかし、家康は関ヶ原の戦いの後、清洲城の城地が狭く、水害のおそれもあることから、名古屋台地と呼ばれる場所に移転して城を築くことを決意した。これには、豊臣方の勢力に対抗するという意味もあった。この藩都の移転を「清須越」という。

 家康は慶長14年(1609)、駿府において名古屋新城の築城、名古屋遷府を正式に発令した。慶長15年、将軍徳川秀忠が、西国の20大名に名古屋城普請の助役を命じた。同年12月には、本丸、二の丸、西の丸、御深井丸のほとんどの石積みが完了した。天守閣も、着工からわずか2年後の慶長17年に完成した。

藩祖として基礎を築いた義直

 御三家筆頭・尾張藩の初代藩主義直は、慶長5年(1600)、家康の九男として誕生した。
尾張は同年9月に起きた関ヶ原の戦い当時、清須城主福島正則によって支配されていた。その時の石高は24万石だった。関ヶ原の戦いの戦功により、福島正則が安芸広島藩に加増移封されると、代わって徳川家康の四男松平忠吉が入封(清須藩、52万石)したが、慶長12年に忠吉が嗣子なく死去して廃藩となった。しかし、尾張は戦略上重要な地であることに変わりはない。そこで家康は名古屋に城を築き、義直を初代藩主とした。

 清須越は慶長17年にほぼ完了するが、その時点では義直は父家康とともに駿府にいた。義直が名古屋城へ入城したのは家康が死去した元和2年(1616)、17歳となった年である。

 義直は元和3年に領内を巡検、法度(法律)を定めたり、家臣に黒印状を下して諸士の役替え、知行を増加したりするなど、藩政の整備を進めた。義直は農業の育成にも力を入れた。木曽川から城下の近くまで用水を引き、犬山に全国屈指の大きさの入鹿池を作るなどして新田開発を行った。瀬戸の窯業を保護、育成したのも義直であった。さらに学問を好み、膨大な蔵書を残している。義直は、慶安3年(1650)に死去した。

その時、名古屋商人は

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