ドイツ人の医師シーボルトが自社を訪れたことがあるのは、ヒロセ合金株式会社だ。
シーボルトは文政9年(1826)、長崎から江戸までを歩き、将軍家斉に謁見した。その道中に見聞した記録をまとめて著したのが『江戸参府紀行』だ。この中で、シーボルトは「11時頃、桑名の町はずれに着き、鐘造りやそのほかの鋳物工場を見物した。鋳型はきれいにふるった灰色の砂で均一につくられ、タケのたがをはめた丸い桶(底板のないもの)の中でしめらせ…」などと記している。
ヒロセ合金株式会社は慶長8年(1603)、初代廣瀬彦三郎が本多忠勝に呼ばれ、桑名市鍋屋町で御鋳物師として創業した時をもって創業としている。だが実際の創業はもっと古そうだ。戦災にあって焼失したが、桑名の蔵には楠木正成から与えられた感状(戦功があった者に与えられる賞状)が残っていたという。楠木正成といえば、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて生きた武将であり、1300年代まで遡ることになる。鋳物師というのは、歴史的には朝鮮半島から渡来してきた人々で、河内に住んでいたのだという。廣瀨一族はその末裔ということになる。
江戸時代は、鋳物師として商いをするにはお上の許可が必要で、桑名には数軒しかなかった。桑名市鍋屋町には今でもヒロセ合金株式会社の創業地が碑として残っている。江戸時代に作っていたのは、鍋、釜、鐘、大砲などだったそうだ。
ヒロセ合金株式会社は、明治の世になり桑名の地を離れて名古屋に移転した。場所は、現本社がある名古屋市熱田区金山町1‐8‐12。
社長の廣瀨奛氏は、初代廣瀬彦三郎から数えて21代目になる。昭和49年(1974)に豊明工場を新設し、生産はそこで行っている。社員は30人。
銅合金鋳物の鋳造から機械加工、組み付けまで一貫生産している。今では機械加工のウエートが高まり、鋳物の仕事は減っている。廣瀨氏は「製造業全体が空洞化の危機に瀕する中で、鋳物工場も厳しい環境に置かれている。だが鋳物の需要がゼロになることはない。鋳物は我が社の本業。コツコツと大事に守り続けたい」と語っている。
廣瀨氏が生き残り策として口にするのは“多品種微量生産”だ。1個、2個という単位からジャストインタイムで提供する体勢を整える。「日本の製造業はそこまでやらないと生き残れない。これからは型の内製化にも取り組む」という。
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