「天文23年(1554)以前」および「慶長17年(1612)」という2つの創業年次を持つのは名エンだ。
同社の創業はあまりに古くてよくわからないが、知多半島成岩青木村において塩を製造していた。青木泰樹社長は「天文23年(1554)の頃に、藤吉郎(木下・豊臣秀吉の前名)は信長の命により清須で楽市楽座を開いたので、その当時清須に出店を開いたのだろう」と想像する。場所は清須市の廻間であった。屋号は「知多屋新四郎」だったようだ。同社はこれをもって第1の創業としている。
信長が今川義元を破った桶狭間の合戦は永禄3年(1560)だから、その6年前である。「ご先祖は信長から可愛がられていたようだ。きっと桶狭間の合戦でも貢献したはず。製塩業は雨が降ったら困るので、天候には精通していた。桶狭間の合戦で雨天を予測して信長に伝えたのでは」と、青木社長は戦国の世に想いを馳せる。
第2の創業である慶長17年は、清須越の時であった。家康の命により、清須の商家は、みな名古屋の碁盤割に引っ越した。青木家は、清須時代に「廻間」という地名の所で住んでいたが、名古屋に移ってからも同じく「廻間」という所に移ることになり、堀川西之町地区廻間町(後の大船町、現在の名古屋市西区那古野1)に居を構えた。そこは市街地の碁盤割から外れているが、名古屋の最重要拠点だった。というのは、名古屋城を外敵から守る出城として、また防火の役目も持たされていたからである。清須越の商人の中でも、特別に選ばれた者だけが住む場所だった。現在でも土蔵の並んでいる裏道は「四間道」と呼ばれ、観光ルートになっている。
江戸時代においても、青木家は塩商として発展した。江戸後期の記録をみると、青木新四郎は尾張藩から「十人衆」として格付けられ、指折りの豪商だった。
明治時代になってからも、青木家の富裕ぶりは続く。明治15年(1882)頃の土地長者番付には、青木新四郎が17位にランクされている。所有地は3万2千平方メートルに及んだ。明治38年には、塩専売法が公布され、塩業界は政府の管理下に置かれた。その環境下でも地道に商いを続け、業界のリーダーであり続けた。
戦後は事業多角化にも乗り出した。「知多屋新四郎」(略して「知多新」)は、現在では「名エン株式会社」という商号になっている。食品、産業機器、環境機器、自動車、運輸、建設、自動車学校から不動産諸関連までを行う名エングループを形成している。グループ全体の社員数は180人。
清須越から数えて十七代目にあたる社長の青木泰樹氏は「青木家には『利を以って集まれるは、利によってはなる。義を以って集まれるは、利によってはなれる事なし』の遺訓が残っている。先祖の教えを守りながら発展していきたい」と抱負を語っている。
現在の本社は、名古屋市中区丸の内1‐14‐31。
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