第2部 江戸時代初期の部/その2、三井越後屋が現銀掛け値なしの商法で大成功

その時、名古屋商人は

この頃に創業した会社・モリリン

 一宮の老舗といえば、モリリン株式会社が代表格だろう。モリリン株式会社は寛文年間(1661―1673)、綿の売買などで創業した。その340余年の歩みは、繊維産業発展の歴史である。その歴史を振り返ってみると次のようになる。

 信長の家臣であった森八郎右衛門の子孫が、郷里の尾張丹羽郡町屋村(現・一宮市)に戻って郷士の生活に入った。その後、寛文年間に入って、子孫の平兵衛が中島郡一宮村地蔵寺西辺に転居した。この平兵衛は農業のかたわら綿作りを始めた。これが創業だ。

 そして、三代目林右衛門の代になって、兼業してきた米穀の商いを止めて、綿と糸の仲買に専念するようになった。当時の一宮は、近郷で作られる綿や糸などの一大集積地に発展していた。真清田神社の門前で開かれる「三八市」には、綿問屋が50軒から60軒も店を出す賑わいだった。三代目林右衛門は、この「三八市」での商いを通じて家業を伸ばした。

カクキューの早川久右衛門社長天保の大飢饉の時に売り出して大ヒットした
綿繰轆轤 『モリリン百年史』より

 三代目林右衛門の商いが大発展するのは、天保時代である。天保の凶作で綿の生産が不作に陥った。綿の価格も高騰した。糸不足を解消するために古蒲団の綿を抜き出して糸にするという苦肉の策を取る者が増えてきたのを見て、それに必要な轆轤の販売に乗り出した。この轆轤は大ヒットし、発展の基盤を築いた。

 この森家の屋号は「辰巳屋」だった。この「辰巳屋」は、四代目林右衛門、五代目林右衛門へと続き、明治時代に飛躍的な発展を遂げる。

 同社は現在、「モリリン株式会社」という社名になっている。資本金12億円、従業員数450名。社長の森克彦氏を取材のために訪れた。名刺を交換すると「どうぞご覧ください」と書類を渡してくれた。見てみると5期分の決算書だった。めくってみると、この不況下になかなかの好業績。平成22年(2010)2月決算は、連結ベースで売上高千155億円、経常利益15億円だった。売上高こそ10%の減となったが、利益面はしっかり確保している。

 著者が驚いたのは、初対面なのにいきなりポンと決算書を出してくれる姿勢だ。上場していないが、上場企業並みの事業報告書だった。開いてみて驚いたのは、株主が658人もいること。そして森克彦社長自身が7%の持ち株比率だったこと。「私は社員の力を結集して、会社を良くするために日々経営者の仕事を楽しんでいます」と抱負を語って下さった。

 社長の森克彦氏は「モリリンは創業以来340年に及ぶ歴史を持つ繊維専門商社だ。現在では ①産地の機屋・ニッターに糸を提供する糸商 ②アパレルメーカーに素材を提供するテキスタイルコンバーター ③生産チームを組織して製造した衣料をアパレルに納入する専門商社 ④当社が企画製造した衣料を小売店に販売するアパレルメーカー ⑤ミシン糸やブルーシートを自社工場で一貫生産する資材製造卸、という5つの機能を持っている」と自社の特徴を語る。そして「これからは中国に注力する。生産拠点としてだけでなく、市場として開拓したい」と抱負を語って下さった。

 本社は一宮市本町4‐22‐10。

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