沢井氏は自身のウェブサイトにて、碁盤割という商人街について次のように解説している。
〈名古屋城下の地割りは、武家地、寺社地、町人地に大きく分けられている。
藩の重臣たちの広大な屋敷は、三の丸に集まっていた。城を護るようにして、成瀬、竹腰の両家老が、大きな屋敷を構えていた。両家老の屋敷前を抜けると山澄将監、渡辺半蔵などの身分の高い武士の屋敷が本町通りに続いてゆく。この通りは大名小路と呼ばれていた。
武家地、寺社地に囲まれるようにして、町人地が大きく城の南に開かれていた。町人地は碁盤の目状に区切られていたので、碁盤割の町と呼ばれている。
碁盤割の町は東西に十一列、南北に九列の正方形のブロックを基本としてできている。東西は御園町から久屋町まで、南北は片端筋から広小路筋までの範囲だ。堀川から東、御園通りまでの地域も整然とした正方形にはなっていないが、碁盤割の町人地の区域に入っている。
碁盤割の道は東西は筋、南北は通りと呼ばれた。中央部分の十間×二十間ほどの広い空地を会所といった。会所には集会所や寺院が建てられた。
通りには、商家が店を並べていた。商家の間口は狭く、奥行きは長い。坪の内と呼ばれる庭があった。
町内では、同じ商売をする店がしだいに軒を並べるようになった。薬種商の京町、魚屋、料理屋の小田原町、古着商の杉の町など同業者が競って商売に励んでいた。
碁盤割の町には、閑所と呼ばれる袋小路があった。閑所は、会所がなまって閑所となった。あるいは家と家との狭い路地の間を通ることから間所が閑所と呼ばれるようになった等の説がある。狭い閑所の両側には長屋が立ち並んでいた〉
また、昔の町名とその由来についても、教えてくれている。メインストリートである「本町」から、その解説を載せよう。
〈名古屋と熱田とを結ぶメインストリートの本町通りは、五間幅(九メートル)に造られていて他の三間幅(五・四メートル)の通りより広く、名古屋の中心の通りであることを際だたせていた。本町通りを、藩主は参勤交代で江戸への往来に使う。その時には見送りや出迎えの藩士で通りは満ちあふれていた。外国からの賓客である朝鮮通信使や琉球使節の一行も、本町通りを通った。
本町通りの両側には、名古屋を代表する商家が軒を並べていた。名古屋に進出する商人の最大の夢は、本町通りに店を構えることであった。
本町筋と京町筋の西北角の地に、松坂屋の前身いとう呉服店が商売をしていた。
いとう呉服店と京町筋をへだてて、向かい側に建っていたのが、藩主の召服を調進する尾張家呉服所の茶屋長意の屋敷だ。茶屋家は特権町人中別格の存在で、武士であり商人であるという両属的性格を持っていた〉
[沢井鈴一氏サイト『開府400年・名古屋の歴史と文化』「開府400年 百年ごとに名古屋は挑戦する 第1回名古屋町づくり事はじめ 町人町 碁盤割・本町商人」より一部抜粋]
沢井氏は同サイトで、町名の由来などを次のように興味深く解説してくれている。
〈茶屋町=町域は、京町筋の長者町より本町まで。呉服所茶屋中島氏が邸宅をかまえていたので、その屋号をとり茶屋町と呼ぶ。『小治田之真清水』に、象が唐人に引かれて、この町を通ってゆく図が描かれている。現在は丸の内二丁目となっている。
和泉町=町域は京町筋の伏見町より桑名町まで。戦前の碁盤割のくらしをしのばせる閑所が、この町内には二つ残っている。慶長遷府のさい、尾州藩御用達をつとめた桔梗屋の分れが美濃忠。道をはさみその前の、戦前の旧家の名残りをとどめ佇む豪邸が、米相場で一代で財をなした高橋彦次郎の子孫の住む家。昭和41年の町名変更により丸の内二丁目となる。
京町=京町筋の七間町より伊勢町までの間をいう。清須越の町で、清須当時の町名を、そのまま用いた。清須へ多くの商人が移り住み、呉服物、細物、太物類を商っていたので、京町と名付けられた。現在も京町で商売をしている中北薬品の祖、井筒屋中北伊助が、この町に店をかまえたのは寛政年間(1789~1801)のことだ。昭和41年、住居表示により丸の内三丁目となる。
小田原町=小田原町は、魚の棚筋の桑名町より本町までの間をいう。慶長15年(1610)清須越当時は東一丁目と呼んでいたが、承応元年(1652)小田原町と改名した。一説には寛永17年(1640)あるいは慶安元年(1648)に改号したという説もある。小田原町に河内屋林文左衛門が料亭河文を開業。以後、御納屋、近直、大又と次々と開店し、魚の棚四軒と呼ばれた。
伝馬町=伝馬橋から東、奥田町(新栄三丁目)に至る伝馬町筋の西端に位置し、木挽町筋と七間町筋との間、ほかに七間町筋から大津町筋との中間北側が町域である。名古屋第一の交通の要地、伝馬町には問屋場が置かれていた。寛文5年(1665)からは、飛脚問屋が置かれ、江戸と名古屋との書状や荷物の取扱いを始めた。江戸まで、7日間で荷物や書状は届いたという。交通の要路であった伝馬町には、多くの名門、旧家が軒をかまえていた。昔より今もこの地で商売を続けているのが、お茶の升半だ。升半こと升屋横井半三郎家は枇杷島(西区)で小さな店をかまえ、茶を商っていた。天保11年(1840)、伝馬町に進出し、挽茶業を創業した。昭和41年、錦一・二丁目となる。
下材木町=木挽町通、中橋より南へ伝馬橋までの間。豪商、材木屋鈴木惣兵衛は元禄13年(1700)知多郡寺本町(現知多市)より移住し、元材木町で材木商を始めた。二代目の時に下材木町に移った。幕末には御用達商人十人衆の一員に数えられるほどの豪商であった。明治4年、下材木町は木挽町に併合。昭和41年の住居表示により丸の内一丁目、錦一丁目となる。
桑名町=桑名町通の北端に位置し、京町筋と杉の町筋との間の二丁。南は桶屋町に接する。桑名町には江戸時代は政治の、明治時代は経済の中枢をになう建物があった。江戸時代、長島町の片端筋東角にあった国奉行役所跡が天明2年(1782)に焼失した。その後、桑名町、片端筋東角に新しく役所は建てかえられた。明治23年、新栄町から名古屋商工会議所が桑名町に移ってきた。昭和41年には丸の内二丁目となる。 下長者町=伝馬町筋と本重町筋との間の二丁。昭和11年には広小路通、昭和四十一年錦二丁目となった、繊維問屋の町だ。幕末、いとう呉服店、十一屋など大店の呉服問屋の番頭が本町の裏筋にあたる二等地の下長者町に店をかまえる。あるいは西万町の古着屋が、店の規模を拡大するために進出する。これらの店は、大店に対抗するため、現金取引の廉価販売を行なった。この手法が大あたりし、繊維問屋長者町の名は全国にとどろいていった。
鉄砲町=本町通、蒲焼町より入江町までの二丁。慶長年間の清須越の町で、清須の町で鉄砲を製造する職人が住んでいたので、鉄砲町と名づけられた。その後、鉄砲師たちは御園町大下に移転した。鉄砲師たちのいなくなった鉄砲町は、職人の町として栄えてゆく。昭和41年、住居表示により広小路北の地は錦二・三丁目、広小路以南の鉄砲町は栄二・三丁目となる。
呉服町=呉服町通の北端に位置し、京町筋から杉の町筋までの二丁をさす。町内は、医学者であり、植物学者伊藤圭介が住んでいた。昭和41年丸の内三丁目、錦三丁目となる。
大津町=山城の国大津の四郎左衛門という男が、織田の繁栄ぶりを聞いて清須にやって来て住居をかまえた。四郎左衛門が住んでいた町は、いつしか大津町と名付けられた。清須越で名古屋に居住した後も、旧号をそのまま用い大津町とした。大津町は伊勢町通東の大津町通の北端に位置し、京町筋と杉の町筋との間をいう。この町の隣は、薬種問屋が数多くある関係で、医者が多く住んでいた。昭和41年丸の内三丁目、錦三丁目となる。〉
[沢井鈴一氏サイト『開府400年・名古屋の歴史と文化』「開府400年 百年ごとに名古屋は挑戦する 第1回名古屋町づくり事はじめ 花の名古屋の碁盤割 町名由来記」より一部抜粋・要約]
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