明治天皇は、明治45年(1912)7月、61歳で崩御した。
明治天皇は、最晩年は体調も悪く歩行に困難をきたすようになった。ご自身も身体の衰えに不安を持っていて「わしが死んだら世の中はどうなるのか」と弱音を吐いていた。
全国各地では、神社や寺院で、病気祈願が行われるようになった。7月26日は、名古屋市長などが熱田神宮にご平癒祈願のために参拝するなど、祈願に赴くものが増えた。だが、祈りも虚しく、7月30日午前零時43分に、心臓麻痺で崩御された。
同年9月13日、東京・青山の帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行なわれた。大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が殉死した。
辛亥革命は起きたものの、中国の動乱は治まらなかった。
1月1日、中華民国の建国が宣言された。孫文は革命政府の臨時大統領に就任した。しかし、欧米列強が袁世凱を支持している事態を受けて、1月22日に孫文は「清朝皇帝が退位し、袁世凱が共和制に賛成すれば、臨時大統領の地位を譲る」と声明した。退位を迫られた清朝最期の皇帝・溥儀が退位し、清朝が滅亡した。そこで孫文は約束通り辞任した。
袁世凱は、3月10日、臨時大統領に就任した。袁世凱は自ら皇帝を自称しようとしたが、支持を得られずに失敗し、間もなく病死した。
袁世凱の死後、中国は軍閥割拠となり、孫文は広州で護法政府を組織し、中国の政治情勢は分断と動乱の時代に突入した。
佐吉は工場の完成とともに、家族まとめて武平町から栄生工場に移り住み、従業員と寝起きをして、自らは発明に没頭した。
朝は、誰よりも早く起きて研究室に入り、作業が始まると、工場に入って機械の間をかけ回り、微細な点までも見落とすことがなく、稼働する織機を研究資料として活用した。
夜は、遅くまで考案にふけって過ごし、家人が佐吉の就寝した時を知らないことがたびたびあった。
喜一郎は、学校から帰ると、家業を手伝うようにもなっていた。
佐吉は明治45年(1912)、発明の功績を讃えられ、藍綬褒章を授与された。このことが佐吉を勇気付けた。
明治天皇の崩御により、明治時代は終わりを告げ、大正時代に入った。
大正時代に入ると、世界はすぐ大事件に驚愕することになる。大正3年(1914)、サラエボ事件が起きて、オーストリアハンガリー帝国皇帝の後継者が暗殺された。これを機に第一次世界大戦が勃発した。
欧州は戦場になり、疲弊した。日本は日英同盟を結んでいたので、参戦した。生産が止まった欧州に代わって、日本は世界の工場となり、活況を呈した。成金も現れて浮かれた。
その大正初期、名古屋で大事件が起きた。それは「稲永事件」といわれるものだ。遊郭は大須にあったが、市街地の真ん中にあるのは大都市として恥であるとの指摘を受けて、移転を決めた。移転先は、南区稲永(現・名古屋市港区稲永)であった。この際の土地買収を巡って一大疑獄事件に発展した。
疑獄事件は大正3年に起きた。起訴されたのは、深野一三(前愛知県知事)、加藤重三郎(前名古屋市長)なども含まれていた。
名古屋は明治末に、いわゆる「三角同盟」というのができあがっていた。愛知県知事深野一三、名古屋市長加藤重三郎、名古屋商業会議所会頭奥田正香という3人がすべてを牛耳る時代が続いたので、人々はそれを「三角同盟」と呼んでいた。その重鎮たちが相次いで起訴されたのだから、市民が色々な噂をした。
奥田正香は名古屋商業会議所の会頭を辞任することになる。その後を受けて就任したのが材惣木材の八代目鈴木摠兵衛である。
尾張藩の御用達商人だった材摠木材の創業の地は木挽町だった。幕末には一時期経営不振に陥った。七代目は有能な後継者を探した挙げ句、一人の俊英を見出した。針屋町の酒造業・日比野茂兵衛の長男だった茂三郎である。茂三郎を、養女のぶ(名エン青木新四郎の次女)の婿養子に迎え、明治8年(1875)に八代目鈴木摠兵衛にした。
そして七代目はさっさと隠居して、上前津の別荘龍門園で楽しむことにした。
この七代目の潔い選択は、良い結果をもたらした。八代目鈴木摠兵衛は家業を立て直して、かつての隆盛を取り戻した。そのうえ、政財界で活躍するようになった。
明治31年に愛知時計電機を設立すると同時に社長に就任した。このほか関与した会社は、日本車輌製造、愛知木材、名古屋倉庫、名古屋瓦斯など数え切れない。名古屋市会議長も務めた。
詳しいことは、続編『愛知千年企業 大正時代編』で述べることにしよう。
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