この年は、アメリカで自動車「T型フォード」が売り出された。
ヘンリーフォードは、もともと機械工で、エジソン電気照明会社の主任技師だった。自動車はそれまで高価で世界に数千台しかなかったが、自動車を大衆の足にしようという目標を立て、製品開発に励んだ。作っては失敗、作っては失敗という試行錯誤を繰り返し、遂にT型を開発した。
これにより自動車は大衆でも購入できるものになった。自動車の需要は爆発的に伸び、20世紀の文明の利器になった。
半世紀以上にわたって君臨した清朝の最高実力者・西太后がこの年に亡くなった。
西太后はもともと満州人の下級官吏の娘だったが、17歳で後宮に入り、咸豊帝の寵愛を受けて皇子を生み、皇后に次ぐ貴妃の位に就いた。その後、咸豊帝が亡くなると、自分の子が同治帝として即位し、自分は皇太后となった。
同治帝が病没してしまうと、甥で4歳だった子を光緒帝として即位させた。だが、光緒帝が成人して国政改革に乗り出すと、それを幽閉してしまった。こうして権力を握り占め、並ぶ者なき独裁者になった。光緒帝の後継者として、まだ2歳だった溥儀を皇帝に決めた。だが、この溥儀の即位とともに、西太后はまぶたを閉じた。73歳だった。
溥儀は後に「ラストエンペラー」という映画の主人公になる、あの皇帝である。
中国を滅亡に追い込んだ最悪の人物とも言われる西太后が最期に発した言葉は、なんと「以後、女に国政を任せてはならない」だった。〔参考文献『クロニック世界全史』(樺山紘一ほか 講談社)〕
豊田喜一郎は、愛知県立師範学校附属小学校(高等小学校)を卒業して、私立明倫中学校(現・県立明和高等学校)に入学した。ただし、その場所は現在の明和高校ではない。当時は、現在の県立商業高校(建中寺の西側)の場所にあった。
明治40年(1907)の株式大暴落は、41年になっても尾を引いていた。不渡手形の増加、金融閉塞による金利高騰など、世界的な不況と相まって、不況は一層深刻化した。
名古屋株式取引所の市況は、年初活況を示したものの、その後は外国貿易の逆調、生糸銀塊相場安、金融の圧迫等から下落に転じ、2月の辰丸事件による対支関係悪化は、紡績株の低落となり、6月まで続落した。7月以降に桂内閣発足、豊作見込み等から反発したが、海外金利高、対支貿易の不振等から気迷いのうちに越年した。株式の売買高は1979千株(前年比1.5倍)で、過去最高を記録したものの、株価は芳しくなかった。
そんな状況下で企画されたのが生命保険会社の設立だった。生命保険会社は、銀行と違って取付騒ぎの恐れがないからだった。名古屋でも、明治41年に「福寿生命保険会社」が設立された。社長は、神野金之助だった。場所は、広小路栄の神明社前だった。この福寿生命保険会社はその後順調に発展した。東京、大阪などにも出張所を設けた。
また、生命保険会社に遅れて、明治44年には「福寿火災保険株式会社」も設立された。株主名簿を見ると、神野金之助がダントツの大株主になっている。2位以下は岡谷惣助、奥田正香、伊藤由太郎、瀧定助、春日井丈右衛門、富田重助、江口理三郎の名が並んでいる。
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