江口巖商店といえば、塗料商社として地元でトップクラスだが、その創業は明治40年(1907)で、創業の地は熱田の七里の渡しの近くだった。
創業者は、江口敬吉という。昭和7年(1932)に72歳で亡くなったというから、生年は幕末の万延元年(1860)頃だと推察される。
敬吉は士族だったが、明治維新後に外国航路の船員になるという体験を積んでいたこともあり、船舶用品の販売をする江口船具店を創業した。七里の渡し付近が漁船の溜まり場だったことから、船具の需要があると見込んだ。その見込みは当たり、商売は繁盛した。
だが、この敬吉は昭和4年に病に倒れたことから、長男の巖が跡を継ぐことになった。巖は明治23年の生まれだから、29歳だった。当時の店は店主含めて6人だったという。店員は住み込みで、朝早くから自転車やリヤカー、大八車で商品を運搬していた。
この巖は父にも増して商魂たくましかった。店名を「江口巖商店」と変えた。それとともに商売の方向を、空・陸へと転じた。中部地区は、航空機や、車両、自動車のメッカとして発展するので、それを見越しての展開だった。そして関西ペイントとの販売代理店契約を結ぶことに成功した。
巖は、関西ペイントの協力も得ながら航空機や車両会社への売り込みに成功した。そして、現在主力得意先になっているトヨタ自動車との取引も、昭和12年のトヨタ自動車工業設立と同時に始まった。
巖は、昭和13年には現本社(名古屋市南区明治一丁目19番5号)に移し、発展の基礎を固めた。
日本は徐々に戦時色を深めることになる。太平洋戦争が始まって、店員は戦争に駆り出されて、残るのは女子社員のみとなり、開店休業に追い込まれた。その上、三河地震で店舗と倉庫が壊滅してしまった。
だが、明治人の気骨というべきか、巖は強かった。終戦の玉音放送を聴くと同時に復興に乗り出した。疎開先にいた巖は、事業再開に向けて、ひそかに15坪ほどの建築木材を、設計図通りに切り込みを済ませていた。木材を運ぶガソリンまで確保していた、という準備の良さだった。
その巖に対して、従来の得意先は全幅の信頼を置いていたので、その援護もあって復興は早い速度で実現した。戦後すぐの昭和24年にドッジ不況に見舞われ、トヨタ自動車工業が経営危機を迎えていたが、納入業者が手控える中で、巖は迷うことなく取引継続を選んだ。その決断がその後大きな飛躍をもたらした。まさに“先見の明”という言葉のピッタリ合う巖だった。
江口巖商店は、巖の後、巖の長男勲が三代目になった。四代目は巖の娘婿の橋本喜代二が、五代目は巖の甥の江口浩平がなった。そして現在は、三代目勲の娘婿の江口勝正氏が社長を務めている。
「江口巖商店」という社名を大事に守っているところに、巖に対する尊敬と感謝の念が込められているのだろう。
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