第3部 明治後期/1909(明治42年)

アメリカで排日運動。
豊田佐吉の織機が、イギリスに勝つ

排日問題がアメリカで激化

 この頃は「排日」の動きがアメリカで激化していた。

 明治38年(1905)に日露戦争が終結すると、アメリカ人は日本に恐怖を抱くようになった。日露戦争で日本がバルチック艦隊を沈めたとき、アメリカ人がまず感じたのは、「日本には恐るべき連合艦隊があるのに、我々はそれに対抗する艦隊を太平洋に持っていない」ということだったという。アメリカは中国大陸に進出したいと考えていたが、日本がこれを独占してしまうのではないかと恐れ、次第に日本が邪魔な存在になっていった。

 アメリカは、中国において、反日運動を煽りたてることも始めた。明治40年は、サンフランシスコで反日暴動が起こり、多くの日本人が殺傷された。明治41年の日米紳士協定により、日本は自主的に新規のアメリカ移民を禁止した。

その時佐吉は――アメリカの反日に怒る

 「排日」というこのアメリカの動きは、日本人のプライドを傷付けた。多くの日本人がそれに怒った。

 この「排日」に対する佐吉の怒りの言葉が残っている。

 「米国人は、日本人が知能の不足した人種だとでも思っているらしい。彼らはよくこういうことを言う。日本人は模倣の国民だ、いったい、日本人は現代文明に何を貢献しているのかと。なるほど中国人には羅針盤の発明があるが、日本人にはまだこれというものがない。それだから日本人を馬鹿にするのだ。しかし、今度の排日法は、人類共存共愛の見地からみて甚だ不条理であり、不正義であると思う。平素に正義を唱えながら、利己的な考えから不正義を押し通そうという彼らだ。米国はけしからん奴だ。」

 佐吉は発明以外には何事も無頓着であったが、この時ばかりは憤激していたそうだ。この頃は、会う人ごとに憤怒の理由を語ったという。

 佐吉は、知能の働きにおいて、日本人は外国人に断じて劣るものではないと固く信じていた。それが発明に対する執念を燃やす要因にもなった。

その時佐吉は――ブラット社との比較試験に勝つ

 「何が排日だ! 日本人の知能は外国人に断じて劣るものではない。それを証明してみせる」

 腹の底から込み上げてくる怒りが、佐吉の原動力になった。それこそ意地になって外国製品に勝つべく研究に没頭した。その結果が出たのが明治42年(1909)だった。

 この年は、イギリスの織機会社プラット社との比較試験が再び行われた。佐吉の発明した幅広鉄製織機は、比較試験の結果、断然リードした。プラット社も、佐吉の自動織機を「世界一だ」と賞賛した。佐吉の負けじ魂が見事に雪辱を果たした。

 このおかげで、注文が殺到し、注文に応じ切れないぐらいだった。

 注文が殺到しても、佐吉は品質にこだわるあまり、一品一品大事に作ることにこだわった。試験にパスしない製品は、断じてマークを押させなかった。自らその試験に目を通したもので、早朝から日暮れまで、ただ製品の検査に没頭したことなど珍しくなかった。

 佐吉は「完全なる営業的試験を行うにあらざれば真価を世に問うべからず」という信念を持っていた。

 だが、その品質にこだわる佐吉の姿勢は、次第に経営陣から嫌われるようになり、やがて最悪の事態を招くことになる。

その時、名古屋商人は

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序文

第1部 明治前期

第2部 日清・日露戦争時代

第3部 明治後期

明治39年 戦後の好景気、株式ブームへ
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 山田商会
明治40年 株価暴落
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 ノダキ
この年に創業 ハナノキ
この年に創業 渡邊工務店
この年に創業 江口巌商店
明治41年 アメリカで「T型フォード」が発売
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 安井ミシン商会(現・ブラザー工業)
この年に創業 ヨモギヤ楽器
この年に創業 星野楽器
この年に創業 丹羽幸
明治42年 アメリカで排日運動
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 福澤桃介
この年に創業 松屋コーヒー
この年に創業 タケヒロ
明治43年 石川啄木『一握の砂』刊行
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 キベ
この年に創業 井上
この年に創業 OMC
明治44年 関税自主権回復
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 大竹製作所
明治45年 明治天皇崩御

第4部 「旧町名」を語りながら