第3部 明治後期/1908(明治41年)

その時、名古屋商人は

この年に創業 音楽を愛する商人の精神が脈々と ヨモギヤ楽器

 元々は苗字帯刀まで許されていた菓子匠「蓬屋」がルーツなのは、ヤマハ音楽教室のヨモギヤ楽器だ。

 昔の旅人は、熱田神宮で参拝をした後で、宮の渡しで船に乗り、桑名まで行ったものだ。「蓬屋」は、その旧東海道沿いで、室町時代からあった菓子匠だった。

 熱田神宮の南門を南に下り、国道1号線を渡ると、愛知県警自動車警ら隊があるが、その東側が発祥の地だ。現在の町名では熱田区伝馬1‐2だが、昔の町名は「市場町21番地」だった。そこをさらに南に下ると、宮の渡しに出る。

 明治の時代に入り、文明開化の波は、菓子匠「蓬屋」にも押し寄せてきた。エジソンが明治10年(1877)に蓄音機を実用化して売り出したというニュースが飛び込んできた。「蓬屋」を営む青山家には3人の男子がいたが、菓子匠を継ぎたい者がいなかった。

ヨモギヤ楽器
ヨモギヤ楽器の基礎を築いた青山郡治と
蓬屋蓄音機商会の看板

 青山家の長男が志したのは、蓄音機の製造販売業で、明治41年に蓬屋蓄音機商会を創立した。当時の日本ではもの珍しい機械で、まさにパイオニアだった。長男は残念ながら世を去ってしまったが、次男の郡治が明治43年にそれを受け継いだ。

 郡治は明治15年生まれだった。大正時代に入ってからは、蓄音機の製造を止めて、小売業に転じた。旧東海道に面しているという立地が良かったのも幸いして、商いを拡大した。まさに〝音楽を愛する商人〟として面目躍如だった。郡治は昭和44年(1969)に亡くなったが、商いのほかにも、謡曲(観世流)や漢詩、陶芸などを愛する趣味人だったようで、人生をしっかり楽しんだ上での最期だった。

 その郡治に見込まれて養子に入ったのが現会長の千代松氏だ。千代松氏は、クラシックが好きで、そのレコードを買いに来る客だったが、青山家の跡取りとして迎え入れられた。郡治の母親の在所だった家から時子が嫁に来て、千代松氏と時子氏という夫婦が誕生した。

 ヨモギヤ楽器は、戦争で焼け出されて、熱田神宮の南である名古屋市熱田区神宮2‐1‐5に移転して現在に至っている。戦後は、千代松氏と時子氏の代になった。2人は学校にオルガンとかハーモニカなどの楽器を売ることに精を出した。学校を手分けして回るのである。夫婦でありながら、どちらが多く売るかを競い合ったとか。当時は高度成長時代であり、売り上げが伸びて、会社の基礎を固めることができた。

 この千代松氏と時子氏の間の長男が現社長の友治氏だ。音楽を愛する商人の精神、それが今日に至るまで脈々と受け継がれている。

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序文

第1部 明治前期

第2部 日清・日露戦争時代

第3部 明治後期

明治39年 戦後の好景気、株式ブームへ
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 山田商会
明治40年 株価暴落
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 ノダキ
この年に創業 ハナノキ
この年に創業 渡邊工務店
この年に創業 江口巌商店
明治41年 アメリカで「T型フォード」が発売
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 安井ミシン商会(現・ブラザー工業)
この年に創業 ヨモギヤ楽器
この年に創業 星野楽器
この年に創業 丹羽幸
明治42年 アメリカで排日運動
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 福澤桃介
この年に創業 松屋コーヒー
この年に創業 タケヒロ
明治43年 石川啄木『一握の砂』刊行
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 キベ
この年に創業 井上
この年に創業 OMC
明治44年 関税自主権回復
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 大竹製作所
明治45年 明治天皇崩御

第4部 「旧町名」を語りながら