お屠蘇気分も冷めやらぬ1月21日、東京株式が大暴落した。株価の推移をみてみると、このように明治40年(1907)の落ち込みは記録的である。
この株価暴落をきっかけにして、3月から翌41年6月にかけて、全国の中小銀行100行が支払いを停止した。金融恐慌となり、深刻な反動不況に突入していった。
戦後の企業熱の起動力となった外資輸入の増加は、半面で「借金(外資)の利子を支払うために新しい借金(外資)をせねばならぬ」という悪循環を生み、これが国際収支を圧迫した。
日本経済は、第一次世界大戦の勃発による好況の到来まで、沈滞と低迷を続けることになった。〔参考文献『大正昭和財界変動史』(高橋亀吉 東洋経済新報社)〕
東京での株価暴落は、直ちに名古屋にも飛び火した。名古屋株式取引所の市況は、年初堅調に始まったが、金融の引き締めから下落に転じ、年後半もニューヨーク市場の恐慌、ロンドン金利の上昇等から不振となり、鉄道株に代わって市場の中心となった紡績株も銀塊安・綿糸安から惨落した。年末には暴落した。
名古屋株式取引所の売買高の推移をみると、次のようになっている。株価は下落したものの、売買高は逆に伸びている。
戦争景気に沸いた名古屋の経済は、株式暴落、小栗銀行の破綻、不渡手形の増加によって一変した。名古屋でも、例えば綿紡業界は、明治41年(1908)から大正元年(1912)に至るまで長期の操業短縮を強いられた。それはもう恐慌といっても過言ではなかった。こうした中で、労働争議も頻発するようになった。明治40年2月には、幡豆郡(現・西尾市)の木挽き職人たちの賃上げ要求ストが起きた。11月にも名古屋の木材運搬夫300人が賃上げを要求してストに入った。全国的にも、三菱造船所でストが起きるなど労働争議が頻発した。
ここに載せたのは株式が大暴落した日の翌日である明治40年1月22日の名古屋新聞である。「株界雑観」という欄で株価下落が書かれているが、大きな扱いではない。この後の数日間の記事を読んでも、緊張感が伝わってこない。この時点では、これが歴史的な大恐慌の始まりだと認識されていなかったようだ。恐慌というのは、案外その時にはすぐ分からないものかもしれない。
また、同時に載せたのは明治40年12月の「名古屋商業会議所月報」である。ここには明治40年を年末において振り返って次のように解説している。
「本年上半期に於ける金融界の小恐慌は所謂自発的熱狂に浮かされたる内部の打撃に外ならずと雖もその下半期に於ける沈衰は欧米特に紐育の恐慌より被りし国際的経済上の打撃。」
「一月二十一日株式の大崩落を来したる以来金融界はすぐに不振の状態に陥り五月下旬小栗銀行の支払停止を初めとし六月上旬亀崎、衣浦、蟹江の三銀行同時に臨時休業をなすに至りてその極度に達せりその後明治、愛知、名古屋の三大銀行に於て同盟規約を結び相共に救助することに一致し又一方日本銀行名古屋支店の後援もありて金融は順境に向かう。」〔参考文献『新修名古屋市史』、『名古屋証券取引所三十年史』〕
恐慌に見舞われる中で明るい話題もあった。名古屋港は明治40年(1907)11月、開港した。開港祝賀会が盛大に挙行された。名古屋港の築港工事は、明治29年に始まった。膨大な予算が必要だったために、反対もあったが推進された。名古屋商業会議所の奥田正香会頭も、強い推進者だった。港の完成により、名古屋は文字通り全国有数の産業の中枢になっていく。
明治40年(1907)に名古屋市役所が全焼した。当時の名古屋市役所は、現在のスカイルの場所にあった。これにより、名古屋市庁舎は移転することになった。新庁舎は、現在の中区役所の場所だった。
もともと名古屋市役所だった現在のスカイルの土地は、いとう呉服店に売却された。いとう呉服店はそこに名古屋初のデパートを建てることになる。
佐吉の成功を聞き付け、再び資本家が寄ってきた。当時、三井物産大阪支店長だった藤野亀之助が来訪し、佐吉の事業に大資本を集中し、株式会社を設立しようというのである。
佐吉は迷った。現に井桁商會は失敗した。そして自らの豊田商会は順調に経営している。今さら三井の援助を受ける必要性はなかった。半年間も迷い続けた末、佐吉は三井の話に乗ることにした。
新会社は、「豊田式織機株式会社」という社名で、明治40年(1907)に設立された。
佐吉は明治38年、名古屋市島崎町1番地で事務所を建てていた。そこは佐吉が住居とし、研究室として、常住座臥「研究と創造」に没頭した場所だった。そこが豊田式織機株式会社の本社屋としても使用されることになった。なお、この建物は現在、産業技術記念館で保存されている。
この「島崎町1番地」は現在の住所では、中村区名駅2‐32‐3だと推察される。名古屋ルーセントタワーの東100メートルの近辺だ。
資本金は100万円。発起人は、大阪からは多数が参加している。名古屋では、奥田正香、神野金之助、岡谷惣助、鈴木摠兵衛、伊藤博七、齋藤恒三、春日井丈右衛門というそうそうたる顔ぶれが参加した。
社長には、大阪合同紡績の谷口房藏が就任した。佐吉は取締役ではあったが、実質的にはいち使用人に過ぎなかった。
だが、豊田式織機会社は、佐吉が案じた通り、設立後すぐ調子がおかしくなった。船頭多くして船が山へ上った形になった。大阪派と名古屋派に分かれての派閥抗争に陥った。営業不振に陥り、株価も下落した。
なお、豊田式織機会社は現・豊和工業につらなる会社である。
佐吉は明治40年(1907)、故郷の生家の改築工事に着手した。翌年の41年に完成した。
新しい家は、日当たりの良い南向きで、生垣に囲まれた庭をもつ瓦ぶきの家屋で、農村では裕福な家を象徴した。この建物は現在、豊田佐吉記念館として残っている。
昔は「発明狂」などと白い目で見られた佐吉だったが、発明家としての名声が高まる中で親孝行ができ、故郷に錦を飾ることができた。さぞ嬉しかったことだろう。
だが、その後で「豊田式織機会社」から解任されて、裸同然で放り出されることになろうとは、本人も予想だにしなかったに違いない。
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