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第3部 明治後期/1910(明治43年)

石川啄木『一握の砂』刊行。
鶴舞公園で共進会開催

石川啄木が『一握の砂』を刊行

  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる

  ふるさとの訛なつかし
  停車場の人ごみの中に
  そを聴きにゆく

 啄木が第一歌集『一握の砂』を刊行したのは、明治43年(1910)だった。

 啄木は明治19年に生まれた。彼の人生はまさに放浪だった。成人してからの仕事は「渋民尋常高等小学校の代用教員」「函館商工会議所の臨時雇い」「弥生尋常小学校の代用教員」「函館日日新聞の遊軍記者」「札幌の北門新報の校正係」「小樽日報の記者」「釧路新聞社」などと目まぐるしく変わり、落ち着かなかった。

 その屈折した人生の中で、明治43年12月に第一歌集『一握の砂』を東雲堂より出版した。このとき啄木24歳だった。その2カ月前の10月には、長男真一が誕生したが、すぐ病死するという不幸に見舞われている。

 啄木は、明治45年4月13日に東京で肺結核のため死去した。妻、父、友人の若山牧水に看取られたが、寂しい最期だった。享年26歳。

 第二歌集「『悲しき玩具』が出たのは、その2カ月後だった。

その時名古屋は―第10回関西府県連合共進会が鶴舞公園で開催

共進会
共進会 『写真に見る明治の名古屋』(名古屋市教育委員編)より
共進会地図
明治43年1月1日名古屋薬盛新聞掲載の共進会地図

 この博覧会は、明治43年(1910)、名古屋市鶴舞公園で開催された。3月から6月までの会期中に、延べ260万人もの入場者があった。夜もイルミネーションがつけられた。

 会場は、本館(農業館、林産館、蚕糸館など)、特許館、機械館などのほかに、台湾館などが設けられた。部門は11で、91室があった。そこに12万9千点もの生産品が展示された。

 愛知県下からの主な出品は、日本陶器の陶磁器、御木本真珠、日本窯業のレンガ・土管、八神幸助器械店の医療器械、安藤七宝店の七宝焼など多数。競い合って出品した。

 出品物は、審査の結果、次のように選ばれた。

 功労賞=織機(豊田佐吉 ただし、この時佐吉は外遊中だった)

 一当賞=お茶(升半)、農業技術(愛知農会)、木材(材摠)、白木綿(カネカ服部兼三郎商店)、朝日織(愛知物産組)、撚糸(帝国撚糸)、絣木綿(佐々絣)、磁器(日本陶器)、磁器(田代)、鼻緒(宮地)、麦真田(真田貿易)、ビオラ(鈴木政吉)、時計(組合)、清酢(笹田)、桜雲羹(大島)、缶詰(日本缶詰)、小麦粉(名古屋製粉)、織機(豊田)

その時佐吉は――「豊田式織機会社」を解任され失意のうちにアメリカ視察へ

豊田佐吉45歳
45歳の頃の佐吉
『豊田佐吉傅』より

 明治43年(1910)4月上旬、豊田式織機会社の緊急重役会議が開かれた。場所は河正旅館(小田原町)だった。佐吉が出掛けてみると、名古屋派が誰もいない状況で、妙な雰囲気だった。そして、社長の谷口房藏は突然口を開いた。

 「会社の業績が上がらないのは、発明や試験のため、社員の気がそちらへばかり奪われている結果だと思う。ついては豊田君、気の毒だが、君は辞職してもらいたい」

 佐吉は、この、あまりといえば、あまりの言葉に怒り出し、席を蹴った。そして自宅に帰ると辞職の手続きを取った。

 この解任事件は、佐吉の人生最大の屈辱になった。晩年、近親の人に対して「発明人生の一生を誤りたる痛恨事だ」と語った。「自分は成すべきことを尽くさなかったであろうか? しかるに自分は突然何の通告もなしに甚大なる侮辱を受けて、会社から閉め出された」と憤慨やる方なかった。

 明治43年の6月、佐吉は青年西川秋次を同伴して、横浜からアメリカに向けて出帆した。船に乗っている最中、佐吉の心中は穏やかではなかった。

 だが、カリフォルニアに着くなり、そんな深い憂慮もどこかに飛んでしまった。カリフォルニアは、見渡す限りの農園で、豊かだった。その光景は、日本とは全く異なっていた。佐吉が興味を抱いたのは機械だった。精巧で便利な機械が多かった。

 佐吉は、ニューヨークに到着した。三井物産の人が出迎えてくれた。佐吉は現地の自動織機の見学を希望したが、佐吉の名前がアメリカでも知れ渡っていたので、まず断られるだろうといわれた。そこで一般の視察旅行者に成りすまして、各地の工場を視察して回った。

 佐吉は、自身の機械と比較して、逆に自信を深めた。「アメリカ恐るるに足らず」と意を強くした。

 佐吉は、多くの明治人がそうであったように、考え方の中に「日本」とか「日本人」というものが常にあった。

 だからアメリカに行っても、アメリカ人に負けない発明をしなければ、と自身を叱咤した。

 ところで、この豊田式織機という会社はその後どうなったのだろうか? 実は現存している。工作機械メーカー「豊和工業」のことだ。「豊田」の豊に、「平和」の和、何とも意味深な社名である。

その時佐吉は――喜一郎の自動車開発資金を上海から送り続けた男 西川秋次

西川秋次
西川秋次
『西川秋次の思出』(西川田津)より

 佐吉がアメリカ視察に連れていった西川秋次は、創生期の豊田の事業に大きな功績を残した人物だ。

 秋次は、愛知県二川で生まれた。佐吉より15歳若く、喜一郎より13歳年上だった。蔵前工業(現在の東京工業大学)紡織科卒業。佐吉の訪米に同行した。

 大正7年(1918)には佐吉に随行して上海に渡った。以後、上海における豊田の紡織事業の先頭に立った。そこで得た資金を本国に送り、喜一郎の自動車開発の資金を提供し続けた。その資金なくして自動車開発はありえないほどだった。

 昭和5年(1930)に佐吉が逝去した後も上海にとどまり、国民党政府(蒋介石)に協力して、事業を継続し、発展させた。

その時、名古屋商人は

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序文

第1部 明治前期

第2部 日清・日露戦争時代

第3部 明治後期

明治39年 戦後の好景気、株式ブームへ
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 山田商会
明治40年 株価暴落
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 ノダキ
この年に創業 ハナノキ
この年に創業 渡邊工務店
この年に創業 江口巌商店
明治41年 アメリカで「T型フォード」が発売
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 安井ミシン商会(現・ブラザー工業)
この年に創業 ヨモギヤ楽器
この年に創業 星野楽器
この年に創業 丹羽幸
明治42年 アメリカで排日運動
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 福澤桃介
この年に創業 松屋コーヒー
この年に創業 タケヒロ
明治43年 石川啄木『一握の砂』刊行
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 キベ
この年に創業 井上
この年に創業 OMC
明治44年 関税自主権回復
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 大竹製作所
明治45年 明治天皇崩御

第4部 「旧町名」を語りながら