山田商会というと、東邦ガスのガス設備配管工事などを行っている有力会社として知られているが、その歴史は東邦ガスとともにあった。だから創業年次も同じく明治39年(1906)だ。
山田商会の創業者は、山田栄之助という。栄之助は、明治10年に兵庫県で生まれた。成人してから大阪に出て、神谷工業所という土木建築業の仕事に携わるようになった。
東邦ガスの初代社長になる岡本桜は、名古屋瓦斯(東邦ガスの前身)の建築工事にあたって、神谷工業所に土木関係の仕事を請け負わせた。その神谷工業所の名古屋事務所の責任者として赴任したのが栄之助だった。
栄之助は、岡本桜から見込まれて、意気投合した。そして明治の終わりに御器所に事務所兼自宅を建てて、本拠を名古屋に移した。栄之助は大正8年(1919)には、名古屋瓦斯の配管工事指定店になり、単なる土木工事にとどまらず、配管工事まで行うようにした。
栄之助は、岡本桜に見込まれただけあり、なかなか太っ腹の事業家タイプだったようだ。厳格な人柄の反面、非常に話のわかる人で、人情に厚かったという。
栄之助は、昭和2年(1927)に現本社所在地に新築移転した。まさに東邦ガスの隣地であり、一心同体で歩む姿勢を打ち出した。そして合名会社組織の「山田商会」を設立した。栄之助は昭和14年に亡くなった。享年62歳だった。
後継者として、栄之助の子の一次が二代目社長になった。そして「栄之助」の名も襲名した。二代目栄之助の時代は、戦争と重なった。日米開戦と同時に物資不足になり、ガス器具類の製造も、工業用や医療用を除いて製造禁止になった。名古屋は、昭和17年の空襲でガス溜の火災を起こした。そして二代目栄之助自身も、昭和18年に召集令状を受け取った。40歳を過ぎてのことで、尾鷲の海軍基地に行くことになった。
昭和19年になると、名古屋への空襲も激しくなった。東邦ガスの本社も被災した。隣にある山田商会も全焼した。東邦ガスは、家庭用ガスの供給停止に追い込まれた。
空襲以外にも、昭和19年12月7日に東南海地震が発生して、東邦ガスの熱田製造所が被災した。こんな状況なので、戦争中は混乱が続いた。
戦後は、戦後で大変だった。社員が出征していったために、人数が激減していた。200人いた社員が20人ほどしかいなかったという。
戦後の仕事は、焼け跡のガス漏れの調査とその修復作業から始まった。ガス漏れの調査というのは、大変な仕事だった。東邦ガスから連絡が入ると、山田商会の社員は徒歩や自転車で現地に向かった。そして人海戦術で調査した。
このようにして山田商会は、名古屋の復興に貢献して今日に至っている。東邦ガスの関係の仕事をしている会社としては大手で、社員は650人近くいる。現在の社長は清水順二氏で、就任以来、積極的な営業活動を行う会社として体質転換してきた。建物の中の配管やガス設備の工事を請け負う営業部隊があり、売り上げを伸ばしている。
最近では東日本大震災において、仙台市営ガスの復旧工事に協力した。社員が数十人赴いて、それこそ休み返上で働いた。ガス管工事は人海戦術なので、ここでも山田商会の機動力が発揮された。
本社は、名古屋市熱田区桜田町19‐21。
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