第3部 明治後期/1910(明治43年)

その時、名古屋商人は

この年に創業 建具屋から始まった集合住宅の新築内装施工業のキベ

 マンションなど集合住宅の新築内装施工業のキベは、明治43年(1910)の創業。その歴史は、まさに荒波大波を乗り越えての奮闘の連続だ。

 キベは、創業者から数えると、現社長の木部英二氏が六代目にあたる。100年そこそこの歴史にしては、人数が多い。それもそのはず。早死にする社長が続いたからだ。社長が突然亡くなってしまったら、後継者は困ってしまう。先立たれた後継者は、それこそ〝やるっきゃない〟状態になり、悪戦苦闘しながら会社を守ってきた。

 木部家は、もともと尾張藩士だった。尾張藩が無くなってから禄を失って苦労した。その家に生まれたのが創業者の木部吉次郎だ。吉次郎は明治15年の生まれ。

 吉次郎は明治中期に時計事業に挑戦した。時計の製造は、木材の加工技術と、精密な機械加工技術が要るので、吉次郎も器用な人だったに違いない。だが、この時計事業は失敗した。

 吉次郎が次に始めたのが建具の製造業だった。場所は、大須の裏門前町(現・中区上前津1丁目)で、周囲には仏壇屋も並んでいた。当時の建具というのは、襖のことである。数人の職人を抱えるまでに発展したが、吉次郎は大正14年(1925)に44歳という若さで亡くなってしまった。

 吉次郎の後を継いだのは、妻くわだった。時代は昭和になり、徐々に戦争の足音が聞こえてくる時代だった。くわは子供を育てながら家業を守り抜いた。戦時中は弾薬を入れる箱を作った。

 吉次郎とくわの間には9人の子供がいた。幸運だったのは、出征していた子供達が戦後に戻ってきたことだ。次男秀男と、三男錠吉は、終戦直後から経営の第一線に立つようになった。そして昭和25年(1950)には法人化して株式会社木部木工所となった。

 木部木工所は、秀男が社長になり、錠吉がナンバー2になった。この2人は持ち味がそれぞれあって、良いコンビだった。秀男は営業肌で仕事をどんどん取ってきた。錠吉は工場をガッチリ守った。

 大きな転機は昭和40年頃から、ゼネコンに営業に行くようになり、マンションなど集合住宅の新築内装施工業(造作・家具・建具など)を始めたことだ。日本でもマンションが普及し始めて、高度成長の波に乗ることができた。

木部英二社長
夫が亡くなりながらも戦時中に家業を守り
抜いた祖母くわの写真を持つ木部英二社長

 だが好事魔多し。錠吉が昭和51年に亡くなり、秀男も昭和59年に亡くなってしまった。まだ68歳だった。秀男の後を継いだのは、その長男の秀一郎だった。秀一郎は本社屋を新築するなど積極経営を行った。だが、その秀一郎も昭和62年に39歳という若さで亡くなった。まさに志なかばだった。

 その後を継いだのは後藤桂一だった。そして平成7年(1995)に現社長の英二氏が後を継いだ。英二氏は秀男の次男で、秀一郎の弟だ。平成12年に社名を株式会社キベに変更した。時代はマンション不況に陥りつつあったが、積極的に受注活動に精を出し、事業を発展させてきた。自分の後継者として、木部秀吉氏(現在専務)を早々と指名し、後継者教育に努めている。秀吉氏は秀一郎の長男だ。 

 本社は、名古屋市中川区尾頭橋2‐12‐17 。

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序文

第1部 明治前期

第2部 日清・日露戦争時代

第3部 明治後期

明治39年 戦後の好景気、株式ブームへ
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 山田商会
明治40年 株価暴落
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 ノダキ
この年に創業 ハナノキ
この年に創業 渡邊工務店
この年に創業 江口巌商店
明治41年 アメリカで「T型フォード」が発売
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 安井ミシン商会(現・ブラザー工業)
この年に創業 ヨモギヤ楽器
この年に創業 星野楽器
この年に創業 丹羽幸
明治42年 アメリカで排日運動
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 福澤桃介
この年に創業 松屋コーヒー
この年に創業 タケヒロ
明治43年 石川啄木『一握の砂』刊行
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 キベ
この年に創業 井上
この年に創業 OMC
明治44年 関税自主権回復
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 大竹製作所
明治45年 明治天皇崩御

第4部 「旧町名」を語りながら