株式大暴落は、名古屋銀行にも飛び火した。
明治30年代は、名古屋の株屋の世界では、後藤新十郎という男が名を売っていた。日本車輌製造の株を買い占めて乗っ取りを企んだり、派手な仕手戦をやったりしていた。だが、そこに株式大暴落が起き、後藤新十郎も壊滅に近い打撃を受けた。
その後、後藤新十郎と懇意にしていたのは、名古屋銀行の支配人・杉野喜精だった。周囲は、名古屋銀行が後藤新十郎に巨額の資金を融資しているに違いないとみていた。だから、名古屋銀行危うし、というデマが飛び交うことになった。
明治40年の1月の大暴落は、どんどん波及した。小栗銀行が株屋への不良貸し出しが原因で5月に破綻し、頭取以下重役が私財を提供して収拾にあたった。銀行は多くのところが休業に追い込まれた。
その波はとうとう名古屋銀行にも来た。預金を払い出す行列ができた。資金はみるみるうちに底を尽きかけた。名古屋銀行の首脳陣は青くなって、日銀名古屋支店に救援を求めた。だが、日銀の答えは過酷だった。愛知銀行や明治銀行などの保証を得ろというのだ。それがなくては融資できない、の一点張りだった。
愛知銀行とか、明治銀行とか、宿敵同然のライバルである。そこに頭を下げ、助けを求めるのである。名古屋銀行の首脳陣は、苦しんだ。その結果、頭を下げることになった。
名古屋銀行の首脳陣は、主に滝一門だった。滝一門は私財を担保に供した上で、ライバル銀行に膝を屈して協力要請を行った。こうして名古屋銀行は危機を脱することができた。その潔さは、名古屋中の評判となって、語りぐさになった。
また、名古屋銀行の支配人だった杉野喜精は、これを機に名古屋を追われた。東京で証券業を創業し、それが山一証券になっていく。東京株式取引所理事長にも就任した。
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