服部兼三郎を「創業の人」とするならば、三輪常次郎は「守成」の人であった。
常次郎は明治19年(1886)5月9日、愛知県西春日井郡西春で生糸商三輪伊助の子として生まれた。彼は兼三郎の遠い親戚筋に当たり、明治33年、13歳で名古屋市立第三小学校を卒業すると同時に奉公に上がった。
「忠七」と名付けられた常次郎は、明治39年から45年にかけて、朝鮮、台湾、満州、そして上海、香港の各地に出張、駐在している。その活躍ぶりは、杉浦英一(作家・城山三郎の本名)著『中京財界史』に、次のように描かれている。
(常次郎は)日露戦争後には、20歳を超したばかりの若さで単身、満州にわたり、中国人を相手に大尺布を商った。外国為替の知識も、中国語も、そうした商いを重ねる中に、自然に会得して行った。若い常次郎の、この強引な商法のおかげで、カネカの綿布は、その最初の海外市場である朝鮮満支へとひろがって行った。彼は4年間も、ひとり満州へとどまって販路拡張につとめたのである。(『中京財界史』)
彼を知る人は、常次郎を評して「聞き上手」「人を引きつける不思議な愛嬌の持ち主」「洞察眼が鋭い」などと形容した。彼は、こうした資質を十分に生かして、ある意味でヒラメキ型で起伏の激しい兼三郎の経営行動に対して、時に励まし、時に押さえ、よき女房役を果たした。
兼三郎の死は周囲を驚愕させたが、真っ青になったのは明治銀行だった。常務の生駒重彦は息を切って駆け込んできた。明治銀行は兼三郎を見込んでいて、1千万円という巨額の融資を行っていた。万一、これが焦げ付くと、銀行にとって由々しき一大事になった。
生駒重彦は顔面蒼白のさまで返済を求めた。だが、常次郎は逆に「緊急融資をしてほしい」と依頼した。生駒重彦はあっけにとられながら「それには担保が必要だ」と答えた。
常次郎にとっては、生きるか死ぬかの真剣勝負だった。もはや駆け引きも何もない。「担保? そんなものは無い。私を信用してください。命のある限りやります」とストレートに言い切った。
生駒重彦は返事を保留して退席した。そして回答をもって、2日後に再び訪れた。「無担保で良い。助けましょう」という内容だった。
服部商店再興に向けて、会社一丸となった奮闘が始まった。これ以上何も失うものがないという自覚は、常次郎にとっても、社員一人ひとりにとっても大きな強味となった。
在庫品の小売販売を、全国で展開したのもこの頃であった。赤字を少しでも減らすには、倉庫に山積みされた手持ち商品を現金に換えることが一番の近道である。丁稚クラスの若い社員が2人、3人とチームを組み、商店街の店先や路傍に戸板を並べて夜店を張る。そんな珍妙ともいえる光景が、ここ名古屋では万松寺や円頓寺、そして熱田神宮東の繁華街で見られた。
石田退三は、自著伝の中で、このように当時の様子を詳述している。
『カネカの暖簾は必ず守り抜きます』
と、全社員を代表して、全店会議の席上、社長の霊前に涙とともに誓った、三輪(常三郎)支配人の開口一番のことばは、今でもわたくしもちゃんと耳の底に残っている。
『カネカのだいじなのれんを降ろすか、降ろさないか、今こそというドタン場であるが、断じてこれを降ろしはしない。降ろすことはできないのだ。
今後、わたくしはいっさいを投げうってこの店の復興に専念する。その再建をみるまでは、月給もとらぬ。ボーナスももらわぬ、妻子を飢えさせてもかえりみるところではない。しかし、これはわたくし一身に限ることで、他の諸君については違ったことを考えたい。みんなにはどうでも、これまで以上にも、2倍、3倍と働いてもらわねばならぬので、従来以上の月給をそれぞれに出す。
ただし、ボーナスに関しては特例を承認してくれるよう頼む。というのは、店の再建の目途がたち、もうこれでだいじょうぶということになるまで、しばらくお預けにさせてもらいたい。つまり、月々けんめいに働いていくことにはことを欠かさないが、遊んだり、飲み食いをしたりの楽しみは、少しばかりさきざきに延ばして欲しい。』
条理を尽くしたこの懇請に、わたくしたち一同は等しくうなずき合ったものである。(『商魂八十年:石田退三自伝』)
幸いにも「カネカ」の再建は、おいおいのうちに順調に進められた。いや、思いのほかに早かったといってもいい。
〔参考文献『興和百年史』、『中京財界史』、『商魂八十年:石田退三自伝』〕
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