日本人を「猿」と蔑視して、日露戦争を行ったロシアのニコライ2世が皇帝の座から引きずり落とされる日がやってきた。
3月、ロシア・ペトログラードで女性労働者がストライキに入り、デモを行った。食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求が中心となっていた。他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がった。要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
ニコライ2世は、軍にデモやストの鎮圧を命じた。しかし、鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側についた。労働者や兵士はペトログラード・ソヴィエトを結成し、新政府の設立へと動いた。ここに304年続いたロマノフ王朝は終焉した。
ちなみに、このニコライ2世はこの革命ですぐ命を落としたわけではなかった。元皇帝一家はウラル地方へ移され、監禁された。そして大正7年(1918)7月、レーニンが元皇帝一家の殺害命令を出した。
2月には、ドイツがUボートによる無制限潜水艦作戦を開始し、イギリスが多大な損害を受けた。
アメリカはモンロー主義に基づき、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていた。しかしドイツが無制限潜水艦作戦を再開したことで、世論の怒りが湧き上がり国交断絶に至った。ついに、大統領ウッドロウ・ウィルソンは4月にドイツへ宣戦布告した。
ドイツとの戦争で打撃を受けているイギリスは、同盟国日本に対して再三にわたり、ヨーロッパへの出兵を要請してきた。
日本は、中国や太平洋地域でのドイツ領を奪取することばかりに熱心で、ヨーロッパへの派兵には慎重だった。日本は大正6年(1917)2月になってやっと地中海にて駆逐艦を派遣した。派遣したのは、巡洋艦「明石」を含む合計18隻で、インド洋と地中海にて、イギリスやフランスなどがもつ世界各地の植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の連合国側商船の護衛と救助活動を行った。あまりにも遅い対応で、イギリスの不興を買った。
日本はほとんど被害に遭うことなくドイツ権益を継承したので、「火事場泥棒」のような印象を世界に与えてしまった。列国の警戒感は高まり、それはその後の日本の孤立化の第一歩となった。
大正6年(1917)は、第一次世界大戦による特需のおかげで、好景気がピークに達した。
戦争景気は、株式市場において大正5年10月末をもって戦中の最高を記録した。経済界が好景気のピークを迎えたのは大正6年であった。大正6年の中でも7、8月の頃は好景気に沸き、町には戦争成り金が溢れた。大正6年は、綿布の輸出が輸入を上回った。これは画期的なことだった。
好景気に伴い、物価が暴騰した。政府は大正6年9月、投機抑圧を目的とする「暴利取締令」を公布し、遅ればせながら強力な物価調節対策に乗り出した。この暴利取締令の公布は、熱狂する各市場の投機人気に冷水を浴びせ、各市場とも一斉に一大反落を呈するに至った。
名古屋市においても、8月、物価騰貴で生活苦にあえぐ名古屋市吏員に対し、臨時給与を支給した。
だが、この戦争景気も、9月、10月になると内外の困難な問題に直面し、下降線をたどることになった。
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