「ある日の暮方の事である。1人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた」
この書き出しで始まる芥川龍之介の処女作「羅生門」が発表されたのは、この年だった。
大正時代を代表する作家・芥川龍之介は明治25年(1892)に生まれた。東京帝国大学在学中の大正4年(1915)10月、「羅生門」を『帝国文学』に発表した。同時に夏目漱石門下に入った。
その後も『鼻』『戯作三昧』『地獄変』『藪の中』『河童』『歯車』などの傑作を世に送り出した。
だが、昭和2年(1927)に自殺した。遺書として、妻・文に宛てた手紙、菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙があるが、その中では「将来に対する唯ぼんやりした不安」と書かれていたという。
第一次世界大戦では、開発されたばかりの大量殺戮兵器が盛んに使用された。1月にドイツ軍が初めて毒ガスを使用した。
5月には、ルシタニア号事件が起きた。南部アイルランド沖で、イギリスの客船「ルシタニア」号が、ドイツ海軍の潜水艦「U‐20」より雷撃を受け沈没した。犠牲者の中には多数のアメリカ人旅行客が含まれていたことから、以後アメリカ国内ではドイツに対する世論が急速に悪化、これが2年後のアメリカ参戦の一つの伏線となった。
5月には、深夜にドイツ陸軍の飛行船が初のロンドン空襲を行う。
ヨーロッパでの戦争が泥沼化する中、日本は今がチャンスとばかりに中国に強い態度をとった。
中国は大正4年(1915)、山東省の日本軍の即時撤兵を要求した。これに対して日本はかねての懸案を一挙に解決するために、中華民国大総統の袁世凱に対し、要求書を提出した。この要求は、南満州での諸権益を明文化し、さらにドイツ権益の継承を目指したもので5項目からなっていた。大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力がないことを利用して、加藤高明外相が袁世凱政府に送ったのである。
これが中国人からの怒りを買い、中国人は5月9日を国恥記念日とし、以後、反日・排日運動が本格化した。
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