昭和30年代の生まれである筆者にとっては、バナナといえば子供の頃には高級品だった。バナナをお腹いっぱい食べることを夢見ていたものだ。そんなバナナの普及において実績があるのが名古屋バナナ加工だ。
創業者は森瀬己之助という。岐阜の加納で雨傘を作っていたが、思うようにいかなくなったので妻まちのと長男一雄を連れて、名古屋に移ってきた。名古屋駅(当時は笹島駅)の近くの西柳町1丁目に落ち着くと、近くの青果市場で安くなった柿やリンゴを仕入れて売り歩いた。大正4年(1915)頃のことなので、この年をもって創業としている。
商売を始めたものの貧乏生活を強いられていた己之助だが、ある時、腐りかけたバナナを売ってみた。すると、バナナは意外に利ざやが大きいことを知った。そこでバナナで勝負するようになった。
大正9年には、バナナ問屋「森瀬商店」を開業した。市場の近くに家を借り、そこに室(ムロ)を作って、緑色の状態で輸入されるバナナを熟成させて黄色に変えた。
このように試行錯誤の末に店を軌道に乗せた己之助だが、残念なことに昭和9年(1934)に死去してしまった。そのため、長男一雄が急きょ後継者になった。一雄は、当時は日本領だった台湾で採れたバナナを仕入れて、大商いをするようになった。だが、そこで戦争に突入した。
戦後の日本は、深刻な食糧不足で、人々はフルーツどころではなかった。だが、一雄はいち早くバナナの輸入再開を目指した。昭和22年には、東海台果という株式会社を設立し、バナナの輸入を再開した。同26年には、バナナの熟成を図るバナナ会館を開設し、バナナの熟成加工業務を開始した。翌27年には、社名を名古屋バナナ加工に変更した。
業界を率いてきた一雄だが、徐々に世代交代期を迎える。一雄には男子が4人いた。長男清、次男は晃次、三男は克己、四男は恭年という。
清は昭和59年に社長に就任した。オレンジやグレープフルーツやレモンの輸入が自由化されると、清はこのビジネスチャンスをつかんで事業を拡大した。
恭年は昭和61年に社長に就任した。ニュージーランド産のキウイは、日本人はどう食べて良いのか知らなかった果物だったが、恭年は試食販売に力を入れて拡販した。生フルーツのみならず、天津甘栗やドライフルーツを包装加工するメーカー機能を設け、全国流通を果たすなどして、売り上げも会社規模も飛躍的に伸びた。
そして、同社は世代としては4代目を迎えた。平成24年(2012)に克己の長男である康之氏が社長になった。康之氏が社長になった頃、流行ったのがバナナダイエットだ。食べながら痩せられるということで、爆発的に売れた。そのブームこそ下火になったが、同社の営業は順調だ。
現在の販売品目は、バナナが4割を占める。その次に大きいのはキウイだ。そのほかでは、アボカドも伸びている。売り先は地元の食品スーパーで、特定の大口の顧客をつくらずにリスクを分散してきたのが強みだ。正社員は35人で、パートタイマーが50人という規模である。
康之社長は「『バナナを中心にした果物』にこだわった経営をしたい。バナナに徹底的にこだわりたい、いたずらに規模を追わずに中身を充実していきたい」と抱負を語っている。
本社所在地は、愛知県北名古屋市鍜治ケ一色高塚24‐1である。
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