トーキーとは、映像と音声が同期した映画のことである。これを発明したのはアメリカの発明家トーマス・エジソンで、この年にニュージャージー州ウエスト オレンジの自分の研究所でトーキー映画を公開した。映画はそれまで無声で弁士が話すものだったが、音声付きに切り替わるようになり、映画の黄金時代をもたらすことになる。
諒闇(りょうあん)という難しい言葉がある。天皇の死に当たり喪に服する期間のことだ。前年に明治天皇が崩御した日本は、大正2年(1913)の正月を迎えた。だが、市中には門松はなく、年頭回りも遠慮して、例年にない寂しさであった。国旗の翻る風景もなく、ただ熱田神宮参拝の人出は、例年よりも多かった。
この年は、経済的にも低迷が続いた。政界の紛糾、アメリカ・カリフォルニア州における排日運動等から振るわず、名古屋株式取引所の年間売買高も89万7千株と明治40年(1907)以降初めて100万株を割り込み、過去7年間の最低となった。
そんな暗い世相の中でも、名古屋市民の間で話題になったのは、納屋橋だった。堀川に架かる納屋橋の架け替え工事が完成し、その記念として夫婦3代そろった家が、橋の渡り初めをすることになった。5月5日に渡橋式が挙行された。松井茂知事が先頭に立ち、次いでめでたき2家6夫婦が続いた。この1家3夫婦の服装は、一番年下の夫婦は、夫が羽織はかま、妻は花嫁姿。父は刀に羽織、その妻は打ち掛けに帯を前結び、祖父はえぼし、ひたたれ、その妻はかつぎをかぶるといったいでたちであった。橋の西から東へ渡り、次に東から西へ渡った。先頭にはいとう呉服店(現在の松坂屋)の少年音楽隊が奏楽して行進し、盛観を極めた。
名古屋市港区に稲永という町があるが、そこには昔、遊郭があった。大正2年(1913)、そこを舞台にした大疑獄事件が起こった。
その頃、大須にあった遊郭を稲永に移転させる計画が浮上した。そこに、この移転候補地の土地を事前に購入して、不当に利益を得ようとしたという容疑が持ち上がった。容疑者として名が挙がったのは貴族院議員深野一三(前・愛知県知事)、名古屋電燈社長加藤重三郎(前・名古屋市長)、十六銀行頭取渡辺甚吉(前・貴族院議員、稲永遊郭のほとんどの土地・家屋を所有していた)、名古屋商業会議所会頭奥田正香や、兼松熙、安東敏之という大物らだった。
明治末の名古屋は、愛知県知事深野一三、名古屋市長加藤重三郎、名古屋商業会議所会頭奥田正香の3巨頭によって、いわゆる「三角同盟」なるものが存在し、県・市会議員も、県選出の国会議員までも意のままになっているという状態であった。その重鎮ががん首そろえて、容疑者として警察から追われたのだから、一大疑獄事件に発展し、大きな波紋を投げたのであった。
容疑者らは、8月に詐欺および贈賄罪として起訴された。時の検事は、鬼検事の異名で知られた小幡豊治だった。
12月には、渡辺甚吉、兼松熙、加藤重三郎、深野一三、安東敏之のいずれもが懲役の判決を受けたが、服役せず控訴した。結局、この疑獄事件は、大正3年6月の名古屋控訴院では5人とも証拠不十分で無罪を言い渡された。
無罪になったものの、疑獄事件が残したものは大きかった。10月、奥田正香は、名古屋商業会議所会頭をはじめ、諸会社の重役などを辞任し、財界より隠退する旨を発表した。奥田正香は旧・尾張藩士奥田主馬の子で、明治21年(1888)名古屋紡績に対抗して尾張紡績を創設したのを手初めに、明治26年には名古屋商業会議所会頭になり、特に日清戦争後に各種の事業を興すなど、名古屋財界に君臨していた。
奥田は、意を決するところあって、現職の一切を辞任し覚王山の山荘で仏道三昧の生活に入った。
この奥田の後を受けて、12月12日に名古屋商業会議所会頭に就任したのが材摠木材の鈴木摠兵衛である。こうして鈴木摠兵衛の時代が始まった。
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