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大正元年(1912)

明治天皇が崩御

明治天皇の崩御を伝える「名古屋新聞」
明治天皇の崩御を伝える「名古屋新聞」
(現・中日新聞)(大正元年7月30日付)

 この年は、近代日本の基礎を創った明治天皇が崩御された。天皇の崩御は、7月30日に公表された。

 その10日前に「天皇陛下去十四日ヨリ御病気ノ処、昨今御重態」と公表されて以来、宮城前には天皇の平癒を祈る国民の姿が絶えなかった。崩御の知らせは、国民に深い感慨をもたらした。皇太子嘉仁親王が即位され、元号も「大正」と改まった。

 9月13日には明治天皇の御大葬があった。乃木希典夫妻も殉死した。

 名古屋では9月12日、御大葬につき、午後8時鶴舞公園において、遙拝式が挙行され、市中は3日間幕を張り休業した。

 この9月は多難で、22日に台風が襲来して、南区稲永新田の住家のほとんどが全滅し、死者が30人出た。山田才吉が名古屋港で建設し、開業直前にあった南陽館(潮望閣、木造5階建て)も流失してしまった。

 大正元年(1912)は、経済面でも厳しかった。日本は、日露戦争で外債を出したので、その返済に追われて苦しんだ。国際収支は元利支払いのため行き詰まり、正貨準備は枯渇しそうになった。しかも入超は依然続き、対外支払いの財源に窮迫して、まさに国家破綻の寸前だった。

 政府は、極度の緊縮政策をとることを余儀なくされたので、銀行、会社の破綻が続出し、経済界は悲観のどん底にあった。

その頃日本は…日露戦争の外債の利払いに苦しむ

国家破綻の寸前

 大正元年(1912)を迎えた時の日本を表現すれば、この言葉に尽きる。日本は、日露戦争に勝った。

 だが、勝ったというよりも、正確には負けなかったといった方が実態に合っていた。日露戦争の代償は大きかった。戦争の軍事費を調達するために、多額の国債を発行し、それを国内で消化できないために、外国人に買ってもらった。これを「外債」という。

『坂の上の雲』(司馬遼太郎 文芸春秋)などに、日本銀行副総裁・高橋是清の奮迅ぶりが描かれている。是清は、内閣から外債発行を指示されてロンドンに飛び、金融機関などを回った。だが、金融機関の対応は一様に冷たかった。当時の日本は極東の小国であり、ロシアと戦争して勝てるわけがないと思われた。敗戦必至の日本の外債を買ってくれるわけがない。足を棒にして回りながら苦心惨憺する是清、もうダメかと思われた瞬間、ある人物との偶然の出会いがあった。その人物の名はジェイコブ・シフ。彼は帝政ロシアを敵視するドイツ系のアメリカのユダヤ人銀行家だった。自分が日本の外債を買うだけではなくて、ユダヤ人の間での紹介もしてくれた。おかげで是清は外債発行に成功した。

 このあたりは、是清の名場面としてテレビでも出てくる美談だ。だが、この名場面には、裏があった。シフは、日本の外債を購入するだけではなく、同時にソビエトの外債まで購入していたのだ。ロマノフ王朝がユダヤ人を迫害していたのを恨んでいて、革命を起こさせるために、ソビエトに資金提供をしていた。そのおかげもあり、ロシア革命が起きてソビエト政府が樹立された。

 シフにしてみれば、勝者は日本でもソビエトでも良かった。日露戦争で利益を得たのは、実は日本でもロシアでもなかったのである。それは欧米のユダヤ人だった。

 日本は日露戦争で賠償金を得られなかった。だから外債の返済は、日本国民の重税で行われることになった。

 日露戦争の戦費総額は18億円だった。日本は明治37年(1904)から38年にかけ合計6回の外債を発行した。借り換え調達を含め総額1万3千ポンド(約13億円弱)だった。日露戦争開戦前年の明治36年の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかがわかる。この外債は、金利が7%という高金利で、返しても返しても増えていってしまった。この日露戦争の外債を完済したのは昭和61年(1986)だという。

 このような状況を経て、大正時代を迎えた。日本は、既に戦争で疲弊していて、資金に窮していた。そこで日本がとった選択は、なんと、さらなる外債の発行だった。借金の返済のためにさらに借金を重ねた。外債は明治37年から大正2年までの合計額が、17億円に達した。当時の通貨流通高が1億円だったというのにである。

 政府債のみでは外債募集の名目が見つからないので、政府は、東京、大阪、横浜、京都、名古屋等の市債の外債発行を勧奨した。また、南満州鉄道、日本興業銀行その他の半官会社をも動員して所要の外資輸入を続けた。それにもかかわらず、正貨現在高は年々減少した。

 外国に支払う金がないので支払い不能に陥るデフォルト、日本はその危機に瀕していた。

 しかも問題だったのは、日米関係が悪化したことであった。日露戦争の最中は、アメリカは一貫して日本に好意的だった。ところが、戦争が終結するとアメリカの世論の風向きは一変し、批判的になった。ロシアを打ち破るほどの強力な軍事力をもつ国家が太平洋を挟んだ東アジアに出現したことに脅威を感じたからだ。日本は自衛措置として、さらに軍備増強に突き進むことになり、国民はその軍事費の負担を強いられた。

 名古屋市民も重税にあえいだ。
 重税、ああ重税。

 大正時代の人々の不満を感じさせるデータがある。右の表は名古屋市民の税金が大正年間にどれだけ上がったのかを示している。〔参考文献『大正昭和財界変動史 上巻』〕

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

明治天皇が崩御
その頃、日本は 日露戦争の外債の利払いに苦しむ
その頃、豊田は 佐吉が栄生で自動織布工場を建設へ
佐吉を物心両面で支援した三井物産の藤野亀之助
弟の利三郎を豊田家に送り、石田退三を入れた児玉一造
その頃、名古屋は 服部兼三郎が商店を法人化
その頃、名古屋は 愛知銀行を揺るがす詐欺事件が起きる

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

大正9年(1920)

大正10年(1921)

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

昭和2年(1927)