大正という新時代を迎える中で、台頭する人物がいた。服部兼三郎である。この兼三郎は興和の前身の創業者である。だが、それだけではない。豊田佐吉の盟友であり、支援を惜しまなかったスポンサーでもあった。兼三郎がいなかったら、今日のトヨタもなかったかもしれないほど重要な役割を果たした。
また、太平洋戦争後にトヨタ自動車を再建した石田退三という名経営者が登場するが、退三が若い頃仕えていたのも、服部兼三郎商店だった。退三は「自分の城は自分で守る」という思想をトヨタに浸透させたが、その経営哲学を教え込んだのも兼三郎だった。
兼三郎は、明治天皇が崩御され、元号も「大正」と改まった年の10月25日、名古屋市中区門前町にある愛知県商品陳列館(現・中区大須3丁目24、コメ兵本部の北側付近)で「株式会社服部商店」の創立総会を開いた。この服部商店は、発足当時こそ30人前後の社員数だったが、わずか数年の間に2千人から3千人にまで増加し、名古屋を代表する会社の一つにのし上がった。
服部兼三郎は明治3(1870)年、名古屋近郊の丹羽郡北野村(現・愛知県江南市北野)で生まれた。明治18年のある日、叔父に当たる祖父江重兵衛宅を訪れた。重兵衛は名古屋でよく知られた大店「糸屋祖父江重兵衛」(現在の糸重株式会社)で、その時は四代目が当主であったが、この時、久々に見た甥の成長ぶりを認め、自分の店に奉公に来ないかと誘ってくれた。兼三郎15歳の秋であった。
尾州(愛知県西半部)は古来、養蚕や綿花栽培の盛んな地であり、自然これらを扱う糸商、呉服・太物商にも大店を輩出している。滝兵右衛門(タキヒヨー)、瀧定助(瀧定)、そして祖父江重兵衛(糸重)と今日も連綿とその系譜を伝える有力な商家が、江戸時代中期から後期にかけてこの地で誕生している。
兼三郎は、手代、番頭へと引き立てられ、商売の呼吸はますます堂に入ってきた。勘も鋭く、めきめき頭角を現す兼三郎は、主人重兵衛の女婿に迎えられるまでになった。
だが、英雄色を好む。この兼三郎は、ありきたりの女婿の枠に収まるものではなかった。仕事は人一倍できる反面、酒は飲む、芸者遊びは絶えない。ついに明治27年、重兵衛は涙をのんで、兼三郎を離縁、解雇した。
兼三郎は23の歳、祖父江重兵衛商店での生活に別れを告げた。
明治27年の独立というのは、ある意味で絶好のタイミングであった。日清戦争は、翌28年の下関条約の締結をもって終結した。これにより、日本は朝鮮、清国市場における権益と、2億両にのぼる賠償金を得、これが呼び水となって産業界は大いに飛躍した。とりわけ繊維業界はそうであった。
兼三郎は服部兼三郎商店の創業間もない明治34年に店(八百屋町にあった。広小路長者町の交差点の南側)が火事で全焼するという不幸に見舞われた。だが、宮町1丁目(現・名古屋市中区錦3丁目10番。十六銀行名古屋ビルの南側のブロック)で新店舗を建てて、移転した。ここを拠点にして大発展を遂げることになる。
兼三郎は、彼の経歴が如実に物語るように「創業」の人であった。勝気で、かつ豪胆であり、自ら求めてリスキーな綿糸布相場に立ち向かっていった。三井銀行の名支店長で、後に中部地区のご意見番とまで評されることになる矢田績は「新進気鋭、積極的の人」と称えた。
それでいて、情に弱いところもあった。大阪で取引先が倒産した時、支店長が一所懸命回収に努力しているのに、相手が頭を下げて頼みに来たら、無条件で勘弁してやったことがあった。
兼三郎は、番頭の三輪常次郎を可愛がり、薫陶した。晩酌の相手をさせられた常次郎は、後年こう言い残している。
「商売人は損をして得を得ることを考えねばならぬ。商取引では必ず相手方からいろいろ苦情が付くものであるが、そのとき相手の言い分をはね付けず、気前よく聞き入れてやることが肝心である。そのかわり何とか別の件でもよいから商売上の利を取るように考えよ。商売人は一遍だけの取引で喧嘩別れをしてはいけない。必ず商いのつなぎを考えなければならない」
このように兼三郎の、豪胆さと同時にもつ繊細さ、気配り、人情もろさといった、もう一つの人となりが見えてくる。
兼三郎は残念ながら後に事業に失敗して自殺をした。だが、番頭だった三輪常次郎が見事に再建して、今日の興和につながっている。〔参考文献『興和百年史』〕
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