国民的漫画「サザエさん」の主人公・フグ田サザエさんは、若い女性のイメージがあるが、実は大正11年(1922)11月22日生まれだ。アニメでは24歳で、ちなみに血液型はB型。
ついでに家族の生年とアニメ上の年齢を紹介しよう。
マスオは、大正6年生まれで、28歳。
カツオは、昭和13年生まれで11歳。小学校5年生。B型。
ワカメは、昭和17年生まれで9歳。小学校3年生。A型。
タラオは、昭和22年生まれで3歳。(団塊の世代だったのですね)
波平は、明治28年生まれで54歳。(どうみても50代には見えませんが、現役の社員です)
フネは、明治34年生まれで52歳。(おばあさんに見えますが、これでも52歳)
作者の長谷川町子は大正9年生まれだった。佐賀県生まれ。昭和21年(1946)、福岡県の地方紙「夕刊フクニチ」に掲載された「サザエさん」で新聞4コマ漫画の第一人者になった。漫画はのちに掲載紙を「朝日新聞」に替え、何度か中断期間を挟みつつ昭和49年まで連載された。作者は、平成4年(1992)に死去した。
景気が不振を極め、銀行の取り付け騒ぎが起きている中で、時局柄〝節約〟の必要性が叫ばれるようになった。1月8日、名古屋商業会議所は「名古屋むだせぬ会」を設け、竹内兼吉はじめ16人の委員を選任し、30日に協議の結果、議員相互間に次の各項を実行することを決定した。①香典は金3円以下なること、②香典返しは廃すること、③献酬は廃すること、④宴会の折詰は廃すること。
この節約運動は広がりをみせ、愛知県・名古屋市・名古屋商業会議所は、合同して毎月1日、15日を消費節約宣伝日と定め、節約デーとして大々的に行い、市民の注意を喚起するようになった。
ここからは筆者の想像の世界だが、この節約運動を推進したのは、材惣木材の鈴木摠兵衛ではなかったかと思う。摠兵衛は長年にわたり名古屋商業会議所の会頭を務めたが、大正10年(1921)に健康を害して辞任した。辞任したといっても、ドンとして隠然たる力をもっていた。
この摠兵衛、節約に関しては右に出る者がいなかった。「けち摠」とか、「しぶ摠」とか、陰口をたたかれても、全く意に介するところがなかった。
摠兵衛の勤倹節約ぶり、合理的生活ぶりは、何かと市民の口の端にのぼった。1本のタオルを一年間使用し、着物の襟には小ぎれを挟み、傷むのを防いでいた。手紙を書けば、相手からの便せんの裏面や余白を使うし、封筒も用済みのものを裏返したり、上に紙を貼ったりして、2度目の役に備えた。街頭で配られるビラ類に、ひどく不機嫌な彼でもあった。
すっかり政財界の著名人になっていた60歳の頃のエピソードである。相変わらず、竹の皮に包んだ弁当を提げて、3等車に揺られて上京する際の定宿は、築地の有明館であった。彼は、そこの玄関脇にある、書生部屋のような一室に陣取る。
名古屋から出て築地で料亭を開業する、名妓おろくの家で、財界人が集まったことがある。もともと、酒にあまり強くない摠兵衛は、間もなく酔ってぐっすり寝てしまった。あとは仲間たちで、女将にやる祝儀の相談をしていた。
だが眠っていたはずの摠兵衛が、跳び起きて、大声で叫んだ、「10円だ、10円でよい」と…。居合わせたものは、みな驚いてしまった。そして、「武士は、くつわの音で眼を覚ますというけれども、彼は金勘定で起き上がる」と、いっとき話題になったとのことである。〔参考文献『名古屋商人史話』、『材摠三百年史』〕
アメリカ・ワシントンで前年11月から軍縮会議が開かれていた。2月に調印に至った。軍縮問題では、日本は主力艦保有率を英米の7割とすることを主張したが通らず、6割で妥協した。
それにしても、米英と対等に交渉できるまでになったのだから、日本も出世したものである。ペリーの黒船に震撼させられたのも、ほんの数十年前のことに過ぎない。このように日本は第一次世界大戦のおかげで台頭し、一等国として認められるまでになった。
だが、それはおごり高ぶりを招き、太平洋戦争に突入することになる。
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