「オレンジ計画」という言葉を聞くと、美味なオレンジを想像するかもしれないが、事実は全く違う。アメリカが日本を仮想敵国とし、その戦争計画を練り上げた。それを「オレンジ計画」というのだ。
アメリカは、各国と戦争に陥った場合を想定して戦争計画を立てていた。それは「カラーコード戦争計画」と国防省内で呼ばれていて、対日本の場合は「オレンジ計画」と名付けられていた。
このオレンジ計画は大正8年(1919)に非公式に立案され、13年初頭に陸海軍合同会議で採用された。
第一次世界大戦の結果、日本は大戦以後、大国として位置付けられるようになったが、存在感が大きくなるにつれ、アメリカから警戒心をもたれるようになった。大統領ウィルソンは、対中国への二十一カ条の要求が明らかになると、強硬に抗議してきた。ウィルソンは人種差別意識が強かったと言われている。そして、アメリカにおいて排日法の制定につながっていった。
このオレンジ計画では、次のように戦争を想定していた。
「日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する」
つまり日本は、アメリカの思惑どおりに挑発されて真珠湾攻撃を行い、計画どおりに敗戦に追い込まれたわけである。
このオレンジ計画が立案され始めた大正8年(1919)の前年である7年に亡くなったのは、日露戦争の日本海海戦の立役者・秋山真之だ。
真之は、大正6年5月に虫垂炎を患って箱根にて療養に努めたが、大正7年に再発。悪化して腹膜炎を併発し、2月4日、小田原の対潮閣で死去した。享年49歳であった。
真之は、明治41年(1908)に海軍大佐となり、大正2年には海軍少将に昇進するなど活躍の舞台を広げた。
そして晩年になると霊研究や宗教研究に没頭した。軍人の信仰者が多かった日蓮宗に帰依するとともに、神道研究を行い、皇典研究会を設立した。亡くなる直前にも教育勅語や般若心経を唱えていたという。
真之の臨終の地は、小田原にある友人「山下亀三郎」の別荘だった。大正7年2月4日、真之の腹は異様に膨れ上がり、黒い血を幾度となく吐き、いよいよ危篤に陥った。午前3時頃、邸内に待機していた見舞客を病室に招き入れて、最期の挨拶を行った。「皆さん、いろいろお世話になりました。これから独りでいきますから」と語り、このあと、真之の遺言が始まった。苦しそうに息を継ぎながら、それでも激しい口調であった。
「今日の状態のままに推移したならば、我が国の前途は実に深憂すべき事態に陥るであろう。総ての点において行き詰まりを生じる恐るべき国難に遭遇せねばならないであろう。俺はもう死ぬるが、俺に代わって誰が今後の日本を救うか」
「これからの戦争は飛行機と潜水艦の時代になる。だから諸君は、飛行機と潜水艦の研究をされたい。それからアメリカと事を構えると日本は苦境に追い込まれる」
この真之が長生きしてくれたら、その後の日本はどうなっただろうか? アメリカを相手に戦うことを主張した若手将校を一喝したに相違ない。そうなれば太平洋戦争に突入することはなかったかもしれない。そう思うと残念でならない。
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