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この年に誕生した会社

電球の傘にはじまり松下幸之助との縁も 
富永電機

前列左から昌子、志やう、仁三郎、幸子。後列左から浩司、晃平
前列左から昌子、志やう、仁三郎、幸子。後列左から浩司、晃平

 平成元年(1989)に104歳で亡くなった「富永志やう」というおばあさんをご存じだろうか? 医者通いもせずに健康で、敬老の日になると市役所から毎年毛布を贈られていた。

 この「志やう」(しょう)さん、ただのおばあさんではない。富永電機という老舗電材屋の創業者なのだ。松下幸之助とも親しくて、幸之助が自伝の中で「富永のおばあさんには本当にお世話になった」と回想している。

 富永電機は、大正9年(1920)の創業。創業者は、富永政吉と「志やう」という夫婦だ。老舗の名古屋商人だった富永仁兵衛と妻そうとの間に「志やう」という娘が生まれた。その「志やう」の婿として迎えられたのが園部政吉だった。政吉は電気屋の岡田商店の筆頭番頭として敏腕を振るった。

 そのうえで、大正9年に独立開業した。時に政吉45歳、「志やう」36歳というから、当時としては遅い独立だった。扱ったのは、電球の傘だった。

 そんな頃、富永電機に営業に来ていたのが松下幸之助だった。幸之助は「志やう」より9歳年下だった。幸之助は大正6年、大阪電燈を依願退職し、大阪の自宅で、妻むめとソケットの製造販売に着手した。大正7年、幸之助は松下電気器具製作所(現・パナソニック)を設立した。幸之助はその後、販路を拡大するために名古屋にも売り込みに来るようになった。

 政吉と「志やう」は、幸之助の意気込みに惚れ込み、販売面を通じて全面協力するようになった。「志やう」は幸之助を手料理でもてなしたという。

 富永電機の創業の地は、中区栄2丁目9番11号だ。地下鉄伏見駅を南に行くと、ポーラ名古屋ビルがあるが、その前に立派なクスノキが立っている。そこが創業の地で、クスノキも内庭にあったものだという。戦後すぐに道路拡張のため市に渡し、現在は名古屋市中区栄1丁目(ヒルトン名古屋の南側)にある。

 昭和9年(1934)には、合名会社にして電気機器や電線、電線管等電設資材の卸売業になり、社業は発展した。だが、日本は徐々に戦時色を強める。空襲で焼け野原になる中で、政吉が昭和19年に病死してしまった。そして敗戦へ。

 ここで普通なら家業が断絶しても不思議ではないが、明治生まれのおばあちゃんは強かった。「志やう」は長男の仁三郎を後継社長にして、社員を叱咤激励し陣頭指揮で再建に当たった。戦後はモノ不足でモノさえあれば売れた時代だったが、富永電機には松下電器産業との太いパイプもあり、商品調達ができ、売上高を伸ばした。

 この「志やう」には、人を見る目があった。長男仁三郎には妻幸子との間に長女昌子(つまり孫娘)がいた。その昌子の婿養子として見出したのが稲垣晃平氏だった。晃平氏を見るなり、「志やう」は店を託すのはこの人だとわかったらしい。そして昌子に縁談を勧めた。昌子は「会ったこともないのに…」と当初抵抗したが、「志やう」は言い出したら聞かなかった。そして2人は昭和31年に結婚へ。

 晃平氏は富永電機に入社するなり、新規営業にまい進し、トヨタグループを開拓し、今日の発展をもたらした。現在は晃平氏が会長になっている。晃平氏と昌子との間に生まれたのが、現社長の浩司氏だ。

 本社所在地は、名古屋市中区栄1‐8‐14である。

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

アメリカが対日戦を想定したオレンジ計画を立案
その頃、日本は 秋山真之が死去。「米国と事を構えるな」と遺言
その頃、世界は 全責任をドイツに押し付けてベルサイユ条約調印
その頃、日本は 大戦中をもしのぐ好景気が到来したが…
その頃、豊田は 佐吉が再度の上海視察へ
<この年に誕生した会社>
「店はお客様のためにある」を信条に あかのれん
<この年に誕生した会社>
電球の傘にはじまり松下幸之助との縁も 富永電機
<この年に誕生した会社>
顧客のニーズに応えた堅実経営
ガラス問屋のウチダ
<この年に誕生した会社>
“水道の時代”を見越しポンプ市場を開拓 川本製作所
<この年に誕生した会社>
昔ながらのドブ板営業でIT時代を生き残った ワキタ商会

大正9年(1920)

大正10年(1921)

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

昭和2年(1927)