佐吉は大正8年(1919)10月、再度視察に赴いた。今度は西川秋次を伴っていた。神戸港から出港し、上海に渡った。佐吉と秋次は、上海で本格的な紡織一貫工場を建設しようと構想するに至った。秋次は工場用地の確保から始めたが、日中間の問題もあって難航した。
当時は、第一次世界大戦の勃発により、中国市場ではイギリス綿製品の輸入がストップしたため、日本の紡織会社の中国進出が活発化した。大正8年に中国の輸入関税率が引き上げられ、これをきっかけに、中国での現地生産に拍車がかかった。大正3年から14年にかけ、中国では87の紡織工場が設置されたが、そのうち日本系は17社33工場にのぼった。
また、その頃豊田喜一郎は、鉄道院浜松工場で実習したり、神戸製鋼所で実習したりして学んだ。〔参考文献『豊田佐吉傅』〕
第一次世界大戦と名古屋との関係で特筆すべきは、名古屋にドイツ軍の捕虜収容所が置かれたことである。
「名古屋俘虜収容所」は大正3年(1914)11月、中区の真宗大谷派東本願寺名古屋別院に開設された。捕虜が解放され収容所が閉鎖される9年4月までの間、総数500人の捕虜が収容された。
ドイツ人捕虜は、時間を空費することなく、本国および日本国内のドイツ人から寄贈された約6千冊の書籍によって勉学を怠らず、自己の職業関係および外国語学(多くは英語・中国語もしくは日本語)の研究に従事するなど、その生活態度は極めて勤勉であった。
地方実業家の間に、ドイツ人の技能を学び、専門的知能を利用したいという希望が強く生まれることとなった。このように名古屋市に開設されたドイツ人捕虜収容所は、期せずして名古屋を中心とする地方の産業をはじめ各方面の進歩と発達に一石を投ずるものとなった。
食料品工業では和菓子に代表される伝統業種が根強く広範に存続する一方で、長栄軒の開業(明治38年〈1905〉)を嚆矢とするパン製造は、盛田善平がドイツ人捕虜から技術を習い、8年12月に敷島製パン株式会社を創立し、パンの大量生産に乗り出している。米騒動が起きた大正7年の翌年のことであり、盛田は「パンは米の代用食となりうる」と確信した。そして、民衆の苦しみを救うためにパン製造を成功させようと決意した。創業するに当たり、「金もうけは結果であり、目的ではない。食糧難の解決が開業の第一の意義であり、事業は社会に貢献するところがあればこそ発展する」という精神を抱いていた。
大正8年、製パン技師ハインリッヒ・フロインドリーブ(ドイツ人)を迎えて創業した。11年には、洋菓子類の製造を開始した。
「敷島」という社名は、盛田善平が江戸時代中期の国学者・本居宣長を崇拝しており、彼の和歌の「敷島の大和心を人とはば朝日に匂う山桜花」からとった。「敷島」とは「日本」という意味で、「敷島の」は「大和」にかかる枕詞だった。
盛田善平は、ソニーの創業者の一人である盛田昭夫で有名な盛田家の分家筋に当たる。〔参考サイト「敷島製パンホームページ『Pascoの歩み』」〈http://www.pasconet.co.jp/〉〕
百田尚樹の小説『永遠の0』(太田出版)の主人公・宮部久蔵は、実在の人物ではないかもしれないが、小説によれば大正8年(1919)生まれとなっている。
家は徳川幕府の御家人だった。祖父は彰義隊に加わり、上野で官軍と戦った。父は相場に手を出して失敗して首をつった。あとに残された家族は大変で、母も病死した。宮部は経済的理由で中学校を中退。金もなく、身よりもなく、昭和9年(1934)に海軍に16歳で入隊した。海軍の下士官は当時、口減らしで入った人が多かった。宮部は最初は海兵団に入り兵器員となり、次に操縦訓練生になってパイロットになった。「操練」は一般の水兵から航空兵を募ったものだった。飛行訓練を経て最初に配属されたのは横須賀航空隊だった。宮部は中国戦線にも参加している。
宮部は昭和17年、妻松乃と結婚。宮部は昭和16年に中国から戻り、横浜の航空隊にいた。その地で食堂を営んでいた松乃の父が宮部を気に入り結婚させた。結婚生活は4年間だったが、そのほとんどは戦地にいた。新婚生活はたった1週間だった。
宮部は、真珠湾攻撃に参加した。空母「赤城」の搭乗員だった。搭乗員の技量が高いものは、空母「赤城」と「加賀」に乗っていて第一航空戦隊(「一航戦」と略した)と言われた。
宮部は、昭和20年8月、特攻により戦死した。27歳だった。
大正時代に生まれた男性は1300万人だった。そのうちの200万人、つまり7人に1人は戦死した。
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