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大正7年(1918)

この年、米騒動が起きる

 この大正7年(1918)という年は、日本国中が米騒動で大揺れに揺れた年であった。

 第一次世界大戦が勃発して以来、物価が暴騰した。大正6年産米の不作が明らかになるにつれ、米価の騰勢は異常さを示し始め、一般物価も軒並み急上昇した。5年に1升12銭だった尾張玄米下の値段が、6年には18銭となり、さらに7年になると31銭に跳ね上がった。
 ちまたでは、あぶく銭をつかんだ「成り金」が続出し、一方では民衆が生活難に苦しんだ。

 そこへきて、政府がロシア革命を阻止するため、シベリア出兵を発表した。先を見越した米商人が買い占めたおかげで、米価がさらに暴騰した。米価の急騰は、労働者の収入増をはるかに上回り、生活難の深刻化とともに、不安は全国的に広がった。

 富山県では7月23日、魚津町の漁師の妻ら数十人が、船に移出米を積みこむのを阻止する行動に出た。新聞はその騒動を「富山の女一揆」などと書きたてた。

 8月3日には、富山の漁民の妻ら300人あまりが、資産家の邸や米屋に押しかけた。このままでは餓死すると訴え、米を他所に移出せず廉売するよう必死の嘆願を行った。

 この事件が各新聞に報道されると、米騒動は一挙に全国化の様相を呈した。自然発生的に各地に拡大した。

 ◆8月9日から名古屋の米騒動が始まった。「今夜、鶴舞公園で演説会があるそうだ」との噂が立ち、公園には、夕方から夕涼みがてらの野次馬が300?400人集まった。彼らは、口々に米価高を嘆き、買い占めをする大手筋や売り惜しみする小売店を非難し、ひいては寺内内閣の失政を罵倒した。だが、その晩は平穏裏に解散した。

 ◆10日になると、夕方から群衆が集まり始め、鶴舞公園の奏楽堂付近は異様な熱気に包まれた。夜9時頃には、そこを取り巻く民衆は2万人を超えた。山崎常吉という者が飛び入り演説を行い、群衆は拍手したり、なにごとか絶叫したりした。
 私服の警察官が警戒に就いていたので、11時頃には群衆は帰り始めた。だが、その中の数千人は、記念橋から新堀川沿いに北上し、当時武平町にあった知事官舎と、その背中合わせの市役所で投石した。次いで、広小路では中央バザーのガラス窓をたたき割り、蒲焼町(現・錦通)から下園町を経て伝馬町へ出た。目指すは米屋町の米穀取引所であった。
 だが、米屋町の米穀取引所の近辺には、警官隊の厳重な警戒網が敷かれていて、群衆は1歩も進むことができず、ついに解散を宣言して散って行った。午前2時である。

 ◆11日になると、心ある米屋は自粛して値上げをしなかったが、一部の米屋は1升47銭から高いところでは50銭と称して値を上げ、いよいよ大衆を刺激した。それに怒った群衆の心理はいよいよ盛り上がった。夕景になると鶴舞公園行きの電車は、いずれも鈴なり満員の乗客で、公園奏楽堂付近は人で埋め尽くされた。
 「民衆の敵を葬れ」
 「米屋をたたきつぶせ」
 など、演説会が始まると激越な口調のアジ演説が行われ、それに和して喚声を上げる群衆の声は、次第に高まっていった。
 夜9時頃には、群衆は4万人まで膨れ上がった。
 「これから知事、市長に陳情に行く」
 リーダー格の一人が宣言すると、一隊は公園前から新栄町へ繰り出した。もう一隊は、上前津へ向かった。そして、共に広小路で合流して、米屋町の米穀取引所を襲う計画を立てた。
 だが、警官隊は、米屋町に通ずる泥江橋と柳橋付近に出動して、水も漏らさぬ非常線を張って待ち構えていた。群衆と警官隊は、ついにここで衝突した。
 群衆は口々に叫んだ。
 「天下の公道を通るのに、何が悪い。道をあけろ」
 「徒党を組んでどこへ行くのだ」
 先頭で小競り合いが始まり、「やっちまえ」という声とともにどっと雪崩を打って警官隊に迫った。いきおい白兵戦さながらの乱闘となり、ついに警官隊は抜刀するに及んで、多数の負傷者も出た。その結果、三十余人の逮捕者を出すに至った。そのため群衆は「あすを覚えていろ!」と捨てゼリフを残して退散した。

 ◆12日は、夕方になると、鶴舞公園に続々と人が詰めかけて、喧々ごうごうたるありさまとなった。その数は実に5万人に及んだ。いつものように奏楽堂で演説が行われ、次々に市街へ繰り出した。
 この夜の演説は、米価高を呪う声より、むしろ矛先を官憲の圧迫に向けて、最初から喧嘩腰であった。先頭の一団は公園前から大池町通りを西に向かい、大池町巡査派出所(ボックス)を見ると、
 「たたんじまえ」
 と襲撃して、巡査を入れたまま「わっしょ、わっしょ」と担ぎ上げ、名古屋商業会議所のところにあった大池へ投げ込んで凱歌を上げた。次いで、上前津に達すると、そこの派出所もまたたく間にたたき壊し、
 「ゆうべの敵(かたき)だ。派出所は全部たたき壊せ」
 と、警官隊も手のつけられない暴徒と化した。
 その暴徒は怒濤のごとく米屋町に流れ込み、まず、米価つり上げに一役買ったと噂のある某仲買店を襲って手当たり次第たたき倒した。
 管轄の江川町警察署は、その状況を次のように報告している。

「9時30分ごろには、泥江橋付近は、一面ひとの山を築き、群衆中投石するものがあって、これにあわせて喚声があがる。12時25分ごろ、2~3千人の集団は、泥江橋に殺到、電灯を破壊し、瓦や石をなげて、非常線を突破しようとする」

 警察は、暴徒の首謀者を逮捕するのに躍起だった。そのため、私服で群衆の中に潜り込む役目の警官もいた。その警官はのちにこう書き残している。

「当時、江川町警察署において派出所勤務をしていた。さわぎがおきると、わたくしは外勤係警部補のひきいる検察分隊に配置された。おもな任務は、群衆のなかにまぎれこみ、分隊長が指示する、主謀者とみられるものを、分隊員がたがいに協力しあって、前方へ押しだすようにし、制服部隊に検挙させたり、あるいは、背中に白墨で目印をつけ、機会をとらえて連行することであった」

  泥江橋付近で警官隊に遮られて反転した数千人の群衆は、東へ方向を転じた。名古屋商業会議所会頭でもあった鈴木摠兵衛の店も襲撃され、焼き打ちに遭った。群衆は次に県庁、知事官舎、市役所を攻撃するため、広小路を東進した。だが南大津町、朝日町でも警察に阻止され、軍隊の応援もあって午前2時30分頃解散した。

 ◆13日は、鶴舞公園に群衆が5千人集まったが、演説中軍隊に解散させられた。知事と市長の諭告が出たうえに、その夕方から再び軍隊が出動したので、一部暴徒が東陽町の一米屋を襲ったのみで事なきを得た。

 ◆14日は、鶴舞公園に集まる群衆は400?500人になった。市内では広小路・大須など各所で警官・憲兵隊と小競り合いをした。

 ◆16日は、大須および伝馬町で小競り合いがあったが間もなく平穏になった。また、いとう呉服店が救済金を寄付したことが伝わり、名古屋の米騒動が収まった。

 こうして米騒動は終わった。警官隊、市民双方の負傷者は数知れず、警官隊の中にはこん棒で顔面を殴られ、下顎が外れ、歯は脱落する重傷を負った警部補もいた。また、襲撃された米屋の被害も相当で、店頭の米穀類を路上にまき散らされたうえに、戸障子を破壊され、散々な目に遭った。

 この名古屋の米騒動は、騒動があった場所が旧町名で記載されているので、現在の名古屋人にはわかりにくい。そこで現代の地名に基づいて解説しよう。一番の騒動となった12日の出来事を、地図上で追うと、こんな感じになる。


群衆は鶴舞公園から大須へ向かい北上して米屋町の米問屋を襲撃、
その後東進した。 「大名古屋市街地図」

 群衆は「鶴舞公園を出て大池町通りを西に向かった」となっている。この「大池町」というのは現在ない町名で、現在は「千代田」となっている。中警察署(当時は池だった)の前の通りを大須に向かったわけだ。当時は、名古屋商業会議所も、中警察署の近くにあった。

 群衆は途中で新堀川の記念橋を渡った。そして西に向かい、大須に至り、そこを北上して「江川町」に行き着いたと思われる。江川町というのは、名古屋高速道路の江川線のことである。江川線の場所は当時、東側に「江川」という川が流れていて、西側は市電が走っていた。群衆は「泥江橋で警官隊と衝突したとなっている」が、「泥江橋」というのは泥江町の交差点の場所である。当時は江川が流れていて、そこに泥江橋という橋が架かっていた。

 群衆が襲撃しようとしたのは「米屋町にある米問屋と米穀取引所」であった。この「米屋町」というのは、名古屋国際センターを西に向かう道で、現在は中村区名駅3丁目となっている。大原簿記学校の近辺のことであり、現在は米屋はあまり見当たらないようだが、昔はその名のとおり、米屋が多数あったのだろう。そして「米穀取引所」は、現在結婚式場のザ・グランクレールがある場所である。

 警官隊に阻止された群衆は、次に「県庁、市役所を攻撃するため、広小路を東進した」となっているが、当時は現・中区役所の場所に名古屋市役所があった。その斜め向かい側(現・栄第一生命ビル・ノリタケ栄ビル)が県庁だった。群衆は途中の「南大津町、朝日町でも警察に阻止された」となっているが、「南大津」とは現在の栄の交差点である。丸栄・スカイルの場所に、いとう呉服店があった。「朝日町」とは錦3丁目で、アパホテル名古屋錦エクセレント、カゴメビル、興和名古屋本店の近辺である。〔参考文献『新修名古屋市史』、『名古屋史話 近代化うら話』〕

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大正6年(1917)

大正7年(1918)

この年、米騒動が起きる
その頃、日本は ロシア革命の阻止のためシベリア出兵
その頃、名古屋は 終戦で冷水を浴びた経済界
<この年に誕生した会社>
挑戦する建材業界の老舗 ヤマガタヤ

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