名古屋は7月12日に大暴風雨が襲来した。最高潮位2・68メートルという大型で、護岸防波堤等に被害が発生した。
その後の8月、名古屋株式取引所は、中区南伊勢町1丁目3番地で建築していた建物が竣工し、初立会が行われた。そんな景気の良いムードを吹っ飛ばしたのが戦争の終結だった。
これは、戦争景気を謳歌していた日本に冷水を浴びせるものだった。戦中の貿易杜絶の間に高騰していた金属・染料・薬品等は途端に暴落し、造船・海運業もまた深刻な打撃を受けた。綿業界もその例外ではなく、たとえば綿糸は10月の高値430円が、休戦後の12月には331円へと値を下げた。戦後不況の本格的到来を思わせるものであった。
名古屋の株式市場も、11月休戦条約が調印されて工業株・海運株が下落した。
だが、大戦景気は休戦により一頓挫したが、間もなくショックより回復する。
〔参考文献『興和百年史』、『瀧定百三十年史』、『名古屋証券取引所三十年史』〕
豊田佐吉のつくった栄生(さこう)の工場は、小規模であったため採算が危ぶまれ先行きが懸念されたが、第一次世界大戦の勃発に伴って需要が拡大して業績が急上昇した。もはや佐吉の研究工場であり発明援助の台所というにとどまらず、個人経営ではとうてい円滑な運営も及ばないほどに膨大化した。
そこで法人化することになり、大正7年(1918)1月に豊田紡織株式会社を設立した。だが、佐吉は過去の苦い経験に鑑み、その株式会社への組織変更にも一切他力を頼まぬことにし、豊田一族のほかわずか2、3の友人を加えるのみの資本構成を固めた。株主構成を見ると、1位佐吉(4万8千株)、2位藤野亀之助(2万9千株)、3位豊田利三郎(1万株)となっている。
この豊田紡織は、その後トヨタグループの母体となる。大正15年には分離独立して、豊田自動織機製作所が誕生した。豊田自動織機製作所は、昭和8年(1933)に自動車部をつくり、それが昭和12年に独立してトヨタ自動車工業となる。
佐吉は豊田紡織を設立した後の大正7年10月、中国に視察に行った。初の中国訪問だった。一人で上海から漢口など長江沿岸の主要都市を歴訪した。この視察により、中国の広大な国土と綿糸布の市場の将来性をみて、中国市場の大きさを知り、中国での紡織事業で確信を深めた。佐吉は3カ月後に帰国した。
海外への進出は彼の長年の夢であった。しかし、社内からは強い反対があった。この年の1月に豊田紡織を株式会社に改組したばかりで、海外へ力を注ぐことを心配したのである。だが、佐吉は三井物産の支援もあり、進出を決断した。
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