大正15年(1926)12月25日、大正天皇が崩御され、摂政宮裕仁親王が践祚された。昭和の幕開けであった。
昭和元年(1926)はわずか1週間で暦が変わった。昭和2年になると、人々が天皇の践祚を祝うのもつかの間、経済界に激震が走った。事の発端は、大臣の失言だった。
3月14日、衆議院予算総会でのことだった。この時の国会は、関東大震災後の経済対策として打ち出した震災手形問題を審議していた。震災手形の決済は2度にわたる期限延長にもかかわらず一向に進まず、2年9月の法定期限を目前にして、到底完了しないことが明らかとなった。そこで野党が追及していた矢先のことだった。
その場で蔵相片岡直温が「本日、東京渡辺銀行が破綻した」と口を滑らせた。それは誤報だった。この失言がきっかけとなり、翌日東京渡辺銀行が休業し、動揺した預金者は他の諸銀行にも取り付けに殺到した。休業に追い込まれる銀行が続出して、日本銀行は非常貸し出しで混乱の収拾に当たった。
これが昭和金融恐慌の始まりだった。
こうして口火を切った金融恐慌は3月末には一応鎮静化しつつあったが、4月5日神戸の大商社鈴木商店の破綻が明らかとなり、また同社に巨額の融資をしていた台湾銀行が同月18日休業するに至った。
鈴木商店は、第一次世界大戦が勃発すると、大戦の長期化と物不足を予測し、一斉に買いの指令を出し、大投機を仕掛け巨富を得た。大正6年(1917)には当時のGNPの1割に相当する売り上げを記録し、日本一の総合商社となった。
鈴木商店は約80もの事業会社を設立した。その中にはサッポロビールなど、現在の大手企業も含まれている。
だが、鈴木商店は第一次世界大戦後の反動不況や関東大震災など事業環境の悪化もあり、メインバンクであった台湾銀行からの借り入れが膨張していた。そして昭和金融恐慌を機に、昭和2年(1927)に破綻した。〔参考サイト「双日歴史館ホームページ『鈴木商店記念館』」〈http://www.suzukishoten-museum.com/〉〕
関東大震災の直後、政府は手形の支払い猶予を認める政策を出した。その支払い猶予は、当初は1カ月間のみだったが、それだけでは解決するはずもなく、大正12年(1923)9月27日に「震災手形割引損失補償令」を公布し、事業者の救済を図ることとした。
これは震災地関係の手形のうち、9月1日以前に銀行の割引したものについて日本銀行が再割引に応じ、かつその手形には3カ年の猶予期間を置くというものであった。日本銀行が割引する手形の損失に対し、1億円を限度として損失を補償することにした。これがいわゆる〝震災手形〟といわれるもので、後日の恐慌の原因となった。日本銀行が割り引いた震災手形は巨額にのぼったが、その多くが焦げ付いた。
加藤高明は大正13年6月、第一次内閣を発足させた。そこで従来の政策を一転して、財政金融に思い切った緊縮政策を断行し、経営不振に陥った会社や銀行を整理する方針を推進した。〔参考文献『愛知銀行四十六年史』〕
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