「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク…」という詩で知られる宮沢賢治は、明治29年(1896)に生まれた。岩手にちなんだ創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブと名付けた。
賢治は、大正13年(1924)、心象スケッチ『春と修羅』を自費出版した。そしてイーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行した。
『注文の多い料理店』の中には、「どんぐりと山猫」「よだかの星」など有名な童話が含まれていた。もっとも発表時は全く無名であり、評価されるようになったのは死後だった。
アメリカは、カルビン・クーリッジ大統領が新移民法に署名し、日本人移民を全面的に禁止した。一方的な「排日」移民法に屈辱を味わわされた日本では、反米の気運が高まっていく。
豊田佐吉は大正13年(1924)2月、2度目の藍綬褒章を受章した。
そして11月には、無停止杼換式豊田自動織機(G型)が完成し、豊田喜一郎が「杼換式自動織機」の特許を出願した。佐吉が自動織機の発明を思い立ってから、長い月日が経っていた。完成された自動織機の性能は、操作員1人につき50台の織機を動かし得るのだった。それまでの織機では1人につきせいぜい4、5台を担当するに過ぎなかったから、まさに10倍の能率増進である。この素晴らしき性能を有する織機の発明が伝えられるや、日本の紡織界は驚嘆した。
豊田佐吉は晩年、知人に向かって綿業立国論を説いた。その趣意は、日本人の常用する綿衣服その他の綿製品を、外国に代金を支払わずして得ようというのである。すなわち、輸入綿花の代金と輸出綿糸布代金とを相殺したいというのだ。しかしながらこれは高遠な理想だったので、まずもって綿糸布の輸出年額10億円を目標に置いた。そして「10億円を見るまでは俺は断じて死なぬ」と言って、自動織機の完成を急いだ。
佐吉は自分の綿業立国論を空想だという人に向かってよく言った。
「自分は紡織業の振興が国土を増加することを信じている。我国綿花の輸入数量(大正15年)は、年額およそ米綿が100万俵、印綿その他が180万俵だが、その約半額弱が綿糸布となって輸出され、他の半額強が内地で消費される勘定になっている。そこで自分はその内地で消費される半額強の綿花を栽培するには、どれほどの耕地を要するかを調べてみたら、250万町歩を要することが解った。そして、この250万町歩の耕地を日本の国土に求めると、実に我が総面積(台湾樺太を除く)の3分の1強に当るんだよ。だから君もし、僕の言う通り綿花の輸入総額と、綿糸布の輸出総額が相殺される時代が来たら、内地で消費される綿糸布はロハということになる。そしてそのロハの綿糸布を製造するに必要な綿花、この綿花を栽培するのに必要な耕地は、日本の国土が増加されたと同じ結果になるではないか。だからこそ、僕は綿業立国論に依る日本の発展を確信しているのだ」
佐吉は幼時、太平洋の真ん中に島を築いて、領土を増やそうと空想したが、佐吉の晩年の綿業立国論によれば、やがては国土の拡張を綿業の振興によって、実現することができることを知った。佐吉の幼時の空想は単なる空想ではなかったのである。
だが、佐吉は輸出綿糸布10億円の実現を見ないうちに、昭和5年(1930)に天国の人となってしまう。〔参考文献『豊田佐吉傳』〕
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