大正時代は、愛知県出身者から首相になる人物が現れた。加藤高明という。高明は、大正13年(1924)6月から大正15年1月まで首相を務めた。外交官として日英同盟の基礎を築き、政治家としては普通選挙法を制定するなど、明治・大正の外交、政治に大きな功績を残した。
高明は、尾張藩の下級藩士である服部重文・久子夫妻の次男として生まれた。父は尾張海東郡佐屋(現・愛西市)の代官の手代だった。加藤家に養子に入り、高明と改名した。旧制愛知県立第一中学校(現・県立旭丘高等学校)、名古屋洋学校を経て、明治14年(1881)に東京大学法学部を首席で卒業した。
秀才ぶりが評判になり、三菱の岩崎弥太郎の目にとまった。弥太郎が熱烈な勧誘を行い、三菱に入社した。当時の三菱には、民間会社員ながら国家官僚並みの活躍舞台が広がっていた。
秀才ぶりが評判になり、三菱の岩崎弥太郎の目にとまった。弥太郎が熱烈な勧誘を行い、三菱に入社した。当時の三菱には、民間会社員ながら国家官僚並みの活躍舞台が広がっていた。
三菱に入社後、高明はイギリスに留学した。ケンブリッジ大学在学中に陸奥宗光と親しくなった。このことが、その後の人生が開けるきっかけになった。
帰国後は、三菱本社副支配人の地位に就き、明治19年には岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長女・春路と結婚した。
その後、官界・政界に転じ、大蔵省銀行局長、駐英公使などを務めた。明治35年には衆議院議員に当選した。大正13年6月、憲政会が第一党となり加藤は内閣総理大臣となった。選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど成果をあげた。しかし一方では共産党対策から治安維持法を同時に成立させた。こうした保革の政治を使い分けた加藤の治世をアメとムチと称することもある。
しかし、大正15年の1月22日、加藤は帝国議会内で肺炎をこじらせて倒れて、そのまま6日後に66歳にて没した。
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