昭和25年(1950)という年は、トヨタ自動車が経営危機に陥った年だ。同年4月は団交が繰り返され、5月25日に豊田喜一郎が社長を辞任し、後任として石田退三が就任することを発表した。労働争議は6月10日に終結した。6月25日には朝鮮動乱が勃発し、日本経済は特需で復活を遂げる。
このトヨタの経営危機の最中、協力工場であったメイドーは代金をまともに払ってもらえなかった。トヨタ自動車の部長に呼び出されて言われたのは、「職工の給与は全部でいくらになるか? その分だけ払いたい」という言葉だったという。多くの取引先がトヨタから手を引いていく中、メイドーの創業者の長谷川鉱三には迷いがなかった。「うちはトヨタ様と共に生きる」と、納品を続けた。そして、同年4月から株式会社設立の準備を進め、同年7月11日をもって、資本金100万円で株式会社明道鉄工所を設立した。
このような経緯でわかるとおり、トヨタとメイドーとの信頼関係は特別だ。
創業者の長谷川鉱三は明治36年(1903)6月7日、熱田神宮に程近い名古屋市熱田区中道で、長谷川嘉吉・津奈の4男として産声を上げた。
大正7年(1918)、市立第九高等小学校を卒業し、将来独立してできる仕事は何かといろいろ研究をした結果、選んだのがボルト・ナット関連の製造であった。卒業と同時に日本車輌製造の技師長であった人が経営する野上織機製作所に入所し、ボルト・ナットを主体とする部品の製作に従事した。弱冠16歳だった。野上織機に勤務する傍ら、愛知工業学校補習科で学んだ。
鉱三は、西区隅田町の明道橋(現・明道町の交差点)の南東角にあった工場を、大正13年4月に買い取り、明るい橋を進もうとする意を含めるため、明道鉄工所と名付け、創業開始した。時に20歳の春であった。「初志貫徹」という言葉は、鉱三にこそふさわしい。創業当時、従業員は5名で、自らも機械に携わり、1本1本のねじを製品化し、自転車で納入した。
トヨタとの取引は古い。大正15年刈谷で株式会社豊田自動織機製作所が設立された。折しも当時取引のあった三輪商店を通じ、設立間もない豊田自動織機製作所へ、角ナットの納入を始めることとなった。豊田自動織機製作所の刈谷工場に自動車部が設置されると同時に、同社は自動車用ねじ部品の製造を開始した。
このような経緯があったので、鉱三には「豊田さんのおかげで育てられた会社」という意識があり、それが昭和25年の経営危機においても、迷うことない選択につながった。
戦後は、GHQ司令部から民需工場への転換許可があり、資材不足ながら、トヨタの協力工場は生産を再開した。トヨタの協力工場の集まりである協豊会は東海協豊会へと改称し、会長に小島浜吉、副会長に長谷川鉱三が就任した。
鉱三は昭和48年に会長になり、長男款一が社長に就任した。鉱三は会社の発展を見届けたうえで、平成17年(2005)に永眠した。101歳だった。
同社は、自動車の重要部品を締結する高強度ボルトの製造が主力だ。平成11年には、款一の長男の裕恭氏が3代目社長に就任した。裕恭氏にとって、社長就任以来の最大のピンチが、平成20年に起こった〝リーマンショック〟だった。その際には受注が落ち込んだが、社員教育に注力し、質的レベルアップを図った。その成果もあり、平成22年には品質管理の世界最高ランクのデミング賞を受賞した。
本社所在地は、愛知県豊田市三軒町4‐5である。
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