大震災は各方面に大打撃を与えたが、福澤桃介の事業が受けた打撃もまた致命的なものだった。桃介は次々に発電所を建設してきたが、震災が発生した時は大井ダムの工事中だった。大井ダムは大正11年(1922)に着工していた。
だが、震災のおかげで、工事を続けてゆく金融の道がふさがれてしまった。桃介が社長を務める大同電力は既にその時までに、当時の金で1千万円以上を注ぎ込んでいたのであるが、工事完成までには、さらに莫大な資金を必要とした。
大同電力が借り入れようとする外資は、総額2千500万ドルという巨額な資金だった。こんな大きな民間の外資導入は、それまで日本では例がなかった。
桃介は、絶対絶命のピンチに追い込まれていた。資金調達に成功しなければ、水力発電という悲願は挫折せざるを得ないのであった。桃介は自らアメリカに渡る決意をした。
桃介が渡米の際に持って行った携帯品は、三題噺(さんだいばなし。落語の一つ)の題のような珍妙なものであった。なんと越中褌50本、マニラロープ1本、金貨5千円だった。越中褌は、毎日はき捨てるつもりだった。マニラロープは、高層建築で火事でもあった時に、窓から逃げ出すときに役に立てるつもりだったそうである。
さて外債の交渉に入ってみると、ことはなかなか容易ではなかった。大同電力の決算内容についても疑問をもたれた。また日本が地震国であることも、大震災の後だけに大きな支障になった。それやこれやで、1、2カ月経っても交渉は進展せず、一時は、全く諦めるより他はないのではないかとさえ思われる形勢だった。
ちょうどその交渉中のことである。桃介が日本から持っていった金貨が、思わぬ一役を演ずることになった。
桃介は、日本も立派な金本位制度の国である、と大見得を張った末に、「日本では現にこのとおり、金貨が流通している」と言って、ポケットから金貨をジャラジャラと、つかみ出してみせた。
アメリカ人たちにしてみれば、いかにも金貨が自由に流通でもしているように考えられたらしく、みな珍らしそうに、その金貨をいじり回したということである。
そのうえで、桃介はアメリカの一流の経済界の人たちを前にして、日本における水力発電の意義をぶった。
「日本という国は資源の乏しい国だといわれている。しかしそれは違う。日本には立派な資源がある。人が多いことだ。雨が多いことだ。山が多い。海に囲まれている。このくらい立派な資源はない。日本は立派な資源国だ」
こんな大見得も奏功して、外資調達に成功した。大同電力の外債は、大正13年の第1回分は1千500万ドルであったが、翌14年7月には第2回分1千350万ドルを発行し、これまた成功であった。利率は第1回分は年利7分、20年返済であったが、第2回は6分5厘、25年で発行することができた。
こうして大井ダムは、大正13年に竣工することができた。〔参考文献『財界の鬼才』〕
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