関東大震災後の復興には、巨額の資金が必要だった。復興資材を大量に外国から輸入する必要があり、そのため、外債を発行して資金調達することになった。
だが、震災直後の我が国の対外信用が最もガタ落ちした時期だったので、債券の購入者が容易に集まらず、金利を上げるほかなかった。そのため手取り金に対する利回りは実に年8%に達するという高率になった。世論では、「国辱国債」と非難する声が多かった。
日本の貿易収支は、震災以後、急激に悪化した。大正12年(1923)には、輸入額は19億円に達して5億円の入超となった。翌13年はさらに増して、入超が6億円に達した。この入超の少なからぬ部分は、我が国の戦後経済の建設用のものによって占められていた。
また、輸出の花形産業であった養蚕業が、レーヨン(人絹)の登場のおかげで頂点を打ち、転落し始めたことも大きな打撃だった。
これが昭和金融恐慌の始まりだった。
政府は、円の為替相場の低落を極力防止する政策をとった。外債募集を容易にする必要上からであった。だが、海外の投機者は日本政府を愚弄するかのように、円相場をもてあそんで巨富を得ようとした。そのため、円相場は暴落・高騰を繰り返した。
金解禁とは、金の輸出許可制を廃止して金本位制に復帰することである。経済界では、当時の経済行き詰まりの根因を金輸出禁止にありとする意見が根強かった。「金の輸出を解禁して、金本位制にすれば円に対する信用が増して、円相場が安定するはずだ」という論理であった。
昭和2年(1927)当時においては、金解禁即行論は、経済界のほとんど一致した強大な要求となった。
昭和4年、濱口雄幸を首班とする立憲民政党の濱口内閣が誕生した。新内閣の大蔵大臣には、元日本銀行総裁の井上準之助が任命された。立憲民政党は「金解禁の断行」と「放漫財政の整理」を公約に掲げていたが、井上にはその旗振り役が期待された。そして昭和5年、当初の予定どおり金解禁を実施した。
だが、昭和5年に入ると、アメリカの恐慌が日本国内に影響を及ぼすようになった。日本はデフレ政策に伴う物価下落と、円高による国際競争力のダウンを招き、二重の打撃を受けることになった。
経済破綻の危機に瀕した日本は、戦争への道を走ることになる。〔参考文献『大正昭和財界変動史 上巻』〕
昭和に入ると、軍部が台頭する世の中になる。だが、経済界には、そんな傾向を覚めた目で冷静に見ている人物がいた。福澤桃介だ。
桃介は昭和3年(1928)、実業界から引退をした。その桃介は友人に対して、こう言ったという。
「日本を滅ぼすものは、日本の陸軍だ。満州事変という大きな成果をあげたぢゃないかと云うだろう。あれは陸軍の打ったバクチが当っただけだ。いつもそうはゆかないぞ。今に日本が滅びるから見ていろ」
「ヒトラーは今大変盛んなようだが、今にきっと衰亡する。ああいうような偉らい人は、人のいうことをきかないから駄目だよ」
(『財界の鬼才』)〔参考文献『財界の鬼才』〕
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