中区正木のヤマガタヤといえば、建材業界の老舗として知られているが、その社名の由来は馬車宿の屋号だったという。
ヤマガタヤの経営者は吉田家で、代々「重兵衛」を襲名してきた。七代目重兵衛は、長男順市が誕生した大正6年(1917)の翌年である大正7年をもって「創業の年」と定めたが、実際にははるか昔が創業だった。初代重兵衛は元禄時代に亡くなっているから、300年ほど歴史がさかのぼる可能性がある。
吉田家は、美並村(現・郡上市)の出身。中でも七代目重兵衛(明治20年〈1887〉生まれ)が家業の基礎を築いた人物だった。重兵衛は良材を求めて山を調査し、山ごと購入した。そして木を伐採・搬出して名古屋等へ運んで販売した。また、本業の傍らで、木管用材(紡績工場で使用するもの)や繭の売買も行い、多彩な商いをしていた。
だが、大正14年に生糸相場が暴落し、大きな損害を出し、吉田家は先祖伝来の家屋敷を売却することになった。たまたま郡上郡下川村で馬車宿が売りに出ていたので、それを購入して再起を図ることにした。その馬車宿が「山県屋」(やまがたや)といった。
馬車宿と聞いても現代人にはピンと来ないと思うが、人間と馬が同宿するもので、馬に飼葉(かいば)を与えたり、馬小屋の掃除をしたりした。その馬車宿は努力の甲斐あって繁盛し、家を再建することができた。
その七代目重兵衛の長男が順市で、この順市が戦後に大を成すことになる傑物だ。順市は大正6年に生まれたので、父が生糸相場で失敗した時には8歳で、幼少期から馬車宿の仕事を手伝い、商売の厳しさを体感しながら育った。武儀中学校を卒業すると、すぐ家業の材木商に従事した。山林で伐採・搬出などを行い、山林の買い付けも行った。
順市は、戦時中に中国戦線などで戦闘を繰り返して昭和21年(1946)3月に帰国した。そこで目にしたのは一面焼け野原になった岐阜市だった。残念ながら父は直前に亡くなっていた。順市は、家業の材木商の再建を目指し、昭和21年に岐阜市で製材工場を建築した。23年には山県屋木材有限会社を設立し、社長に就任した。
商売を軌道に乗せた順市は、昭和29年に名古屋市中区正木町に名古屋支店を開設した。この名古屋進出は、父の代からの悲願だったという。そして昭和33年に一家を挙げて岐阜に移住した。
だが、好事魔多し。伊勢湾台風が襲った。山県屋は新築したばかりの岐阜支店で製材工場が倒壊し、機械類が水没した。そんな惨状下で依頼を受けたのは復旧用資材だった。建設省中部地方建設局からの要望で、決壊した堤防を直すための杭木を数十万本納入することになった。
順市は、会社の復旧は後回しにして、全員で一丸となって昼夜兼行で取り組んだ。これにより、昭和35年に同省から感謝状を受けることになった。
昭和45年には、社名を「株式会社ヤマガタヤ」に変更し、本社を名古屋市中区正木1丁目1番4号に移した。
ヤマガタヤは、昭和63年、順市が会長になり長男隆彦氏が社長に就任した。隆彦氏は木材だけでなく、住宅建築に関わる資材納入、建築工事、ビル等の非住宅の内装・外装工事、設備機器の取り付け工事、リフォーム事業、さらには住宅の全館空調工事ならびに住宅建設にも分野を拡大して発展させた。
順市は会社の発展を見届けて、平成11年(1999)、82歳で亡くなった。
平成24年には隆彦氏が会長になり、長男達弘氏が社長になった。達弘氏は太陽光発電システムの普及にも乗り出している。
挑戦する老舗企業。それがヤマガタヤだ。
本社所在地は、名古屋市中区正木1‐1‐4である。
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