戦争が終わった時、日本はいよいよ戦後恐慌に突入か?と思われた。だが、意外にも早くショックから回復し、大正8年(1919)の3、4月からは、むしろ大戦中をもしのぐ好景気が訪れた。ヨーロッパ各国の消耗が予想以上に著しく、復興のための物資需要が増大したことに加え、アメリカ経済の好調に支えられ輸出が増加したことが、その主因であった。
原内閣の積極予算もこれを刺激した。商品相場は再び上昇に転じた。いったん下げた綿糸相場もたちまち活気づき、同年の11月には727円へと跳ね上がった。戦後ブームの幕開けである。異常ともいえる投機熱が日本中を覆った。その対象は生糸、綿糸、米などの商品から、株式、土地にまで及んだ。9月に至りがぜん投機熱が高まり、11月頃には既に常軌を逸したところにまで白熱化するに至った。
工場は求人に苦心するようになった。求人競争は激しくなり、斡旋業者が利益をむさぼった。工場は、斡旋された1人の従業員が、2カ月以上勤務すれば2円、勤務が3カ月以上になればさらに3円と、前後合わせて5円の斡旋料を支払い、それに旅費等を加算して、1人平均10円という費用を支払ってまで求人した。
名古屋の株式市況は、大正8年当初、大戦の終結による一部商品の下落、海運界の不況等から続落したが、4月底入れ模様となり、紡績・砂糖株を中心に上昇に転じ、6月講和条約調印後も続伸し、また不動産株も買われ、いわゆる「戦後の大相場」を現出した。10月18日は、臨時休会(売買高激増)した。同年の売買高は、540万株と大正5年の記録を更新した。
名古屋株式取引所は、大正8年1月、高橋彦次郎が理事長兼常務理事に就任した。
しかし、この戦後景気は不安定な要素をはらんでいた。日本の貿易収支は、この大正8年の1月から既に入超に転じており、正貨が流出し始めた。加えて設備投資や投機のための資金需要の増大によって、金融は逼迫の度を強めていた。活況に沸く商品相場にしても、実態は思惑買いによる仮需要の水膨れであった。このように日本経済の実態・実力を無視した好況がいつまでも続くはずがなかった。
〔参考文献『興和百年史』、『瀧定百三十年史』、『名古屋証券取引所三十年史』〕
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