空前の好景気に沸いていた大正8年(1919)の9月、名古屋にガラス屋が誕生した。現在のウチダである。当時はまだ障子が一般的な時代だったので、ガラスはこれからの分野だった。
創業者は、内田百三郎という。三河の酒蔵の子供だったが、家を継ぐ長男ではなかったので、どんな仕事に就くか探していたのかもしれない。妻はると結婚したが、その親戚にガラス屋をやっている人がいたので、そこに夫婦で弟子入りをして仕事を覚えて独立した。
創業した時は28歳だった。創業の地は、現本社(名古屋市中区橘1‐16‐37)の付近である。
大正時代は、ガラス製品の幕開けの時代だった。兵庫県に旭硝子が誕生して、地域特約店を募集した。特約店になるには、多額の保証金を要したことにより、百三郎は親戚中を駆け回って資金を借りて工面した。こうして特約店になったことで、小売りから卸売業へと転換し、発展の基礎が出来上がった。
昭和の時代に入って、住宅にガラス窓を付けることが普及したこともあり、同社は発展を遂げることになる。昭和11年(1936)には合資会社内田硝子店を設立して法人化した。
その夫婦の長男として大正8年に生まれたのが順造だ。順造は成人して家業を継ぎ、2代目になった。昭和47年には社長に就任した。
順造の長男が現社長の安彦氏だ。安彦氏は父順造の体が弱かったこともあり、早くから経営を任されてきた。平成2年(1990)には社長に就任した。
ウチダの経営の特色は、多角化だ。現在の事業内容は、ガラスおよびサッシ、建材関連商品の卸売業、樹脂製品の卸売業、自動車ガラスのアッセンブリー、グラスウール(自動車で使う断熱材)成形加工業、タイヤホイールアッセンブリー等を扱う自動車部材事業など幅広い。
このような多角化は、顧客からのニーズに応えてのことだった。ガラスの取付工事業を始めたのは昭和20年で、敗戦後の復興の真っ最中だった。大手ゼネコンが名古屋に進出したのを機に、同社に対して「取付工事までやってほしい」と依頼があったのがきっかけだった。
昭和30年には、樹脂製品の卸売業も始めた。板などの樹脂製品が建材として使われるようになり、仕入れ先の大手樹脂メーカーから、取り扱うように勧められたからだった。
自動車ガラスのアッセンブリーを扱う自動車部材事業は、昭和36年に開始したが、それも大手自動車部品メーカーからの依頼だった。
このように、顧客のニーズに応えての多角化であったから、石橋を叩いての堅実経営そのものだった。本業だったガラスの卸売業の構成比は、小さくなった。そこで社名も、平成17年に内田硝子株式会社からウチダ株式会社に変更した。
長い歴史を誇る同社にも経営危機があった。昭和30年代のことである。取引先が倒産して不渡り手形をつかまされた、当時のメインバンクは第一勧業銀行(現・みずほ銀行)だった。百三郎はすぐ銀行に駆け付けて事情を話した。銀行は検討の結果、支店を挙げて応援することを決めた。百三郎は「借りても良いですが、お金を返せないかもしれません」と頭を垂れたが、支店長は「金利だけ返済してくださっても結構です」と答えたという。長年の堅実経営に対して、銀行がいかに信頼を寄せていたかがわかる。もちろん、同社はその後すぐ再建した。
今では祖父母も、父も故人となった。現社長安彦氏は、このように回想する。「同居していたのでよく覚えているが、おじいさん夫婦はとにかく働き者で、年がら年中働いていた」「百三郎は温厚な人柄で、お客様から言われたことに、たとえそれが無理なことであっても、NOとは言えない性格だった」。祖父が語った言葉で印象に残っているのは、「いつまでもあると思うな親とカネ。ないと思うな運と災害」だという。
そして、祖母のことも「はるは勝ち気な性格で、おっかない存在だった。女傑だと周囲から言われていた」と懐かしそうに語る。「そう言えば、こんなこともありました。祖母は質素倹約を徹底していました。板ガラスは、ガラスとガラスの間に紙を敷くのですが、それを合紙(あいし)といいます。それはたくさん出るので山になるのですが、それをメモ用紙として使えというのです。しわを伸ばしてA4サイズに切ればメモ用紙として使えるというのです。おかげで私は子供の頃から命じられてメモ用紙を作らされていました」と笑う。
安彦社長には、後継者候補の男子もおり、将来に向けた後継体制も盤石だ。
本社所在地は、名古屋市中区橘1‐16‐37である。
Copyright(c) 2013 (株)北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所 All Rights Reserved
〒452-0805 愛知県名古屋市西区市場木町478番地
TEL 052-505-6237 FAX 052-505-6274