大正元年(1912)。この年は豊田家にとって正念場だった。
豊田佐吉が、栄生で建設していた豊田自動織布工場(名古屋市西区則武新町、現・トヨタ産業技術記念館)が、大正元年の9月に完成し、稼働し始めた。工場が完成したといっても、赤字経営であり採算はとれていなかった。
「この工場さえ、うまくいってくれたら」
豊田家の人々の気持ちは、不安でいっぱいだったかもしれない。この年、佐吉は46歳、妻浅子は36歳、長男喜一郎は19歳、長女愛子は14歳だった。
佐吉は、発明家として、また事業家として、のるかそるかの運命の分かれ道に立っていた。
佐吉は家族をまとめてこの工場へ移転し、一般従業員と寝食を共にして、精力の全部を発明に集中した。
喜一郎は、工場に住居ともども移ってからは、生活が急変した。明倫中学で5年生になったが、学校から帰ると家業を手伝うことが多くなった。
まさに家族総出、従業員全員が寸暇を惜しんで立ち働く日々となっていた。
そもそも、佐吉がこの工場建設に着手するきっかけになったのは、豊田式織機会社で辞任に追い込まれたからだった。全国の資本家が集まって、佐吉の発明を事業化するために、豊田式織機会社という会社がつくられたのだが、目先の利潤を追う資本家と、発明に意欲を燃やす佐吉が対立し、佐吉は辞任に追い込まれた。佐吉が晩年、近親の人に「発明生活の一生を誤りたる痛恨事だ」と語るほどの出来事だった。豊田式織機会社を飛び出した佐吉は、動力織機発明以来豊田商会に至る積年の財的基礎も、一瞬にして失い、ほとんど無一物といってもよい状態であった。
佐吉は、明治43年(1910)、欧米視察に旅立った。一般の視察旅行者に成りすまし、ボストン、ニューベッドフォードその他各工場を視察した。ボストンは、アメリカ北部の機業地で高級品の産地であった。
佐吉は自己の自動織機と比較して、「アメリカ機恐るるに足らず」と意を強くした。そして、今さらながら終生の研究題目としていた自動織機の発明が、世界的価値を有するものなることを痛感した。佐吉は、資本家との争いに嫌気がさし、一時は日本から離れることさえ考えた。だが、佐吉の胸奥によみがえったのは祖国愛であった。「一身の恥辱は小事だ。恥を忍んで余生を国家に捧げよう」と決心すると、久しい間、佐吉の心をかく乱した河正会議(佐吉を事実上の解任に追い込んだ会議。料亭河文の近くにあった河正旅館で開かれた)や、資本家の暴虐ぶりが、心の中から消え去った。
帰国した佐吉は、紡織工場の建設を目指した。「繊維の仕事でもうけて、自動織機の発明に使う」という考えから、まず紡織工場をつくり、そこで得られた利益をもとに自動織機の開発を進めようとした。
だが、佐吉に対する世間の風は冷たかった。今まで力を貸してくれた先輩や友人も、手のひらを返してそっぽを向き、資金面の援助にもはなはだ冷淡を極めた。この時、佐吉の親友として、その最大理解者として、終始援助の手を差し伸べ続けたのが、藤野亀之助(三井物産)、児玉一造(三井物産)、服部兼三郎(服部商店社長)らわずか数名に足りぬ人々であった。
佐吉は、明治45年には藍綬褒章を受章したが、本音は褒章よりも開発のための金が欲しかった。〔参考文献『豊田佐吉傅』〕
★ 佐吉のエピソード 人を引きつける不思議な魅力があった
豊田佐吉には不思議に人を引きつける魅力があった。それはどことなく他人を敬服せしめる魅力であった。だから、佐吉の周囲には人が集まり、支援する人が自然に増えた。
佐吉は非常に正直な人であった。そして情に厚い人であった。必要以上に情をかけてしまうために失敗することが少なくなく、こんなこともあった。
伊藤久八といえば、明治27年(1894)に名古屋で創業した際の共同経営者だった。その久八に金を持ち逃げされたために、佐吉は辛酸を嘗めるのだが、その久八に対しても情をかけた。
佐吉の成功ぶりを聞きつけて、恥ずかし気もなく、久八が佐吉を訪ねてきた。その久八に対して佐吉は「よく来てくれた。あの頃は貧乏だったが、お陰でどうやらこれまでになったから喜んでくれたまえ」といって自ら案内して工場を見せた。後日、久八が「台湾へ行って一旗揚げたいと思う」と言って相談に来た時も、少なからぬ金を与えて、その門出を祝った。
こんな佐吉だったから、周囲は佐吉がまた人にだまされやしないかと気が気でなかった。部下が傍らから「大将、口車に乗っては駄目ですぞ」と念を押すのだが、佐吉は「あの人は大丈夫だよ」と言った。それでいて、結局だまされてしまうことなど度々だった。
佐吉はそんな性格だったから、佐吉を慕って付いてくる人が大勢いた。
佐吉は成功してからも、他人に対して偉ぶった態度を取らなかった。佐吉は従業員の意見をよく聴いた。従業員が間違ったことを申し出ても「そこまで考えるには骨が折れたろう。いい考えだ。しかし…」と言って優しくその考えを訂正した。
これは機械のことばかりはでなく、人事すべてに対してこの流儀だった。後年、成功してからも、佐吉は「上に立つ者は下の者からどんな考えでも言い出しいいようにしてやらなければいけない」とよく言った。
「話し上手よりも聴き上手になれ」というのが佐吉の主義だった。だから部下は、どんな考えでも発表できた。それだけに責任も感じた。このように、佐吉は人を使うことのうまい人であった。〔参考文献『豊田佐吉傳』〕
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