児玉一造は、滋賀県彦根藩の足軽の子として明治14年(1881)に誕生した。苦学して滋賀県商業学校を卒業した。明治32年頃、三井物産は中国市場開拓のための修業生を募集していた。商業学校の卒業生を募集し、中国に送って中国語を習得させ、実地業務を習練させ、対中国貿易を拡大しようとするものであった。
一造はそれに応募し、明治33年に採用された。一造は、ここから出世階段を上り始める。一造は、アモイに駐在中に中国語を徹底的に勉強して、これを完璧に習得した。次に英語も習得した。アモイや台湾で大きな営業成果を出して評価され、次にロンドン支店に栄転して、そこでも成功を収めた。
その一造は、名古屋にも縁ができる。大正元年(1912)には名古屋支店長として赴任した。31歳という若さでの、大出世だった。当時の名古屋支店では〝76万円事件〟が起きていた。社員が手形を偽造して巨額の金を詐取し、名古屋中の話題となり、三井物産の信用は失墜した。だが、一造は思い切った業務と人事の刷新をやり遂げ、難問を片っ端から解決した。
その名古屋支店長時代に、豊田佐吉と出会った。当時の佐吉は、欧米視察から帰って、栄生での工場建設を目指していたが、資金の問題を抱えていた。藤野亀之助は、名古屋を訪問して、佐吉を会食に誘った。その会食の場で、名古屋支店長になっていた児玉一造を佐吉に紹介した。
亀之助は、ここで6万円という巨額の資金提供を申し出た。同席していた一造も「日本勧業銀行から6万5千円を借り入れて、紡機その他の機械類は、三井物産から3カ年年賦で買い入れてはどうか?」と提案した。「日本勧業銀行には私から口をききます」とも言った。
佐吉はこの時、初対面であった一造のことを気に入った。亀之助が、一造のことを「優秀な若手である」と持ち上げたこともあったが、何より、一造の誠実そうな人柄、熱意、行動力が気に入った。
佐吉は、こうした支援者に支えられて、ようやく工場建設に着手できた。
一造は、佐吉を尊敬していた。尊敬するあまり、弟の利三郎に対してまで、豊田家に婿養子として入ることを勧めた。大正4年には、利三郎は佐吉の娘愛子と結婚し、名を豊田利三郎と改めて養子に入った。媒酌人は藤野亀之助だった。
利三郎は、神戸高等商業学校を卒業して、伊藤忠商店に入った秀才だった。計数に明るく、経営の才覚があり、佐吉亡きあとに、豊田グループの総帥として実力を発揮する。
石田退三は、戦後に倒産の危機に瀕したトヨタ自動車工業を救った中興の祖だが、その退三が豊田に入るきっかけを作ったのも一造だった。
このように一造は、面倒見のいい人で、人の世話をトコトンした。自ら媒酌人となって結婚した新夫婦は、約50組に及んだ。喜一郎夫妻の媒酌人も一造だった。
一造は大正3年には、三井物産の大阪支店綿花部長になった。9年には、三井物産の綿花部を独立させて、東洋棉花株式会社を設立して専務に就任した。なお、この東洋棉花はのちの「トーメン」で、現在は豊田通商に吸収されている。大正11年には、上海豊田紡織廠の取締役に就任し、豊田の中国進出を支援した。大正13年(1930)には、三井物産の取締役になった。
だが、一造は、昭和5年に死去した。49歳という若さだった。〔参考文献『兒玉一造傅』〕
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