「昭和十四三月二十三日午後七時すぎ、名古屋市港区大江町の海岸埋立地区にある三菱重工業名古屋航空機製作所の門から、シートで厳重におおわれた大きな荷を運んだ二台の牛車が静かにひき出された。牛車は、名古屋航空機製作所の荷役を請け負う大西組所属のもので、牛の手綱を取る挽子は、三菱のマークの下に大西組と太々と書かれた提灯を手にしていた」
いきなり文章を引用したが、これは吉村昭の名著『零式戦闘機』(新潮文庫)の一部である。ここで運ばれているのはゼロ戦の試作機だ。行き先は各務原飛行場である。海軍の厳しい要求に応えて、堀越二郎が開発したゼロ戦である。
ここで「大西組」として書かれているのが現・オーエヌトランスだ。名古屋港は明治40年(1907)に開港した。大西組はその名古屋港の歴史と共にある。
大西組は大正2年(1913)、大西伊治郎が創業した。石炭を扱っていた三菱商事や、三菱重工業の荷役を請け負うことから発足した。創業の地は現在の港警察署の裏で、昔はそこに三菱商事があったので、当初から三菱と一体だった。大西伊治郎は現・中川区の一色町の出身で、人を集める才覚があったので、このような仕事を始めたようだ。
戦時色を強める中で、三菱重工業は名古屋で存在感を増していったが、大西組は昭和11年(1936)には名古屋発動機製作所、岩塚工場、瑞穂工場などに対して燃料を運搬する仕事を手広く行うようになった。
だが、敗戦…。三菱重工業は財閥解体の対象になった。その傘下にあった大西組も厳しい経営を強いられた。
伊治郎という人は、裸一貫で創業しただけあって、そのような苦境にもめげなかった。戦後いち早く再建に乗り出した。昭和22年には三菱倉庫に指定され、物品の入出庫の業務を請け負った。24年には三菱石油の名古屋営業所開設とともに石油製品の運搬を始めた。26年には株式会社大西組として法人化した。伊治郎は、このように再建にめどを付けた末に27年に亡くなった。
伊治郎には4男3女がいたが、男は病気や戦争で亡くなる者が多かったので、末弟の四男勲が後継社長になった。勲は石炭から石油へというエネルギー革命に対応して、業務内容を転換した。そして伊治郎の長男叡市の長男であった一郎にバトンを渡した。現在は一郎の娘婿の杉江豊文氏が社長になっている。
三菱石油は日本石油と合併して新日本石油になった。そこで豊文社長は新日本石油と専属運送契約を結んだ。新日本石油はその後他社と合併し、現在はJX日鉱日石エネルギー株式会社になっている。
豊文社長は日愛石油輸送株式会社と合併して、社名を株式会社オーエヌトランスに変更した。オーエヌトランスは、タンクローリーを使って燃料油および潤滑油を運ぶのが主な業務内容だが、従来の港湾運送事業者とのパイプがあるので、経営基盤は固い。
本社所在地は、名古屋市港区潮見町37‐39である。
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