陸軍特別大演習が11月13日から16日まで、愛知県下で行われた。天皇陛下は、大演習御統監のため行幸し、名古屋離宮(現・名古屋城)に駐泊して、18日還幸した。期間中に、日本陶器の工場も視察した。
名古屋市民は、名古屋離宮に御駐泊の天皇陛下の御慰めとして、提灯行列を行った。11月13日と15日の両夜、中等程度以上の諸学校職員生徒が離宮正門に至り、万歳を三唱した。
その際に大正天皇の御駐輩所だった名古屋離宮に、豊田佐吉は御召出されるという栄に浴した。このようなことは希であり、いかに佐吉が評価されていたかがわかる。
また、弟平吉の次男として、甥に当たる英二が9月12日に生まれたことも、豊田家にとって朗報だった。この英二は、のちにトヨタ自動車工業の社長になる。
★ 佐吉のエピソード 名人元旦を知らず
自動織布工場を自営して、豊田佐吉が自動織機の考案に没頭した頃は、人生で最も緊張した時代だった。佐吉は一家を挙げて工場へ移り、職工たちと寝食を共にして、豊田式織機の重役たちから受けた恥辱をそそぐべく、また英米織機に打ち克つべく夢中だった。
その頃の話―。
佐吉は、宵の口から製図とにらめっこしていた。時々鉛筆をとって何かを書いた。研究室の内部であった。
佐吉の癖で、間断なく敷島をスパスパ吹かしながら考え続けるのだ。煙の中で、佐吉は精悍な顔をして、インスピレーションの来るのを待っているのであった。
夜は次第に更けたが、佐吉はちっとも気がつかない。家人が2度も3度も研究室の前へやって来たが、そのたびに内部の電燈は煌々と輝いている。家人は黙って主屋の方へ引き返した。
時計が深夜1時を打つ頃には、家人も寝静まったらしく、しんとして物音一つしなかった。
2時、3時。やがて一番鶏が鳴いた。
だが、佐吉はまだ研究室で考え続けていた。いよいよ目がさえて、頭がはっきりして来るのであった。
とうとう夜が明けた。朝日がみずみずしく東の空に上った。が、佐吉はまだ研究室から出て来ない。
午前9時頃になって、流石に家人も心配になって、研究室へ出かけて行った。するとその途端、佐吉は片手に製図を握って、勢いよく飛び出して来た。
そして走るようにして工場へ飛んで行くのだ。家人は心配して、そっと背後からつけて行った。
ところが工場には誰もいなかった。
「おい、誰かおらんか!」
と佐吉は叫んだが、返事をする者はなかった。家人が近づいて、
「今日は元旦でございます」と言うと、
「ははは、そうかい」と佐吉は大笑いした。
佐吉は元旦とは知らず、徹宵して考え出したある装置の試作を、早速命ずるために、工場へ飛んで来たのだった。
〔参考文献『豊田佐吉傳』〕
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