大正4(1915)年は、豊田家にとってめでたいことがあった年である。豊田佐吉を支援して止まない児玉一造が、弟の利三郎に対して、佐吉の娘愛子との結婚を勧めたのである。
佐吉には、先妻たみとの間に喜一郎、後妻浅子との間に愛子がいた。愛子は当時まだ愛知県立第一女学校4年在学中の女学生であった。この愛子は美女だった。佐吉には全く似ておらず、浅子に似ている(?)せいか、素晴らしい美女だった。
利三郎は、明治17年(1884)に生まれた。明治28年生まれの喜一郎よりも11歳年上だった。生まれたのは彦根の貧しい家だった。神戸高等商業学校(現・神戸大学)、東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻科を卒業後、伊藤忠商店に就職。翌年に新設されたマニラ支店の初代支店長を務めるなど秀才だった。
縁組は順調に進み、結婚式を大正4年10月8日に挙げた。藤野亀之助夫妻の媒酌にて、豊田家住居の東区武平町に近い西新町の大神宮において神前結婚式を挙げた。利三郎32歳、愛子17歳だった。
夫婦は、東区南外堀町11丁目に新家庭を持った。大正7年末には東区白壁町2丁目33番地に住宅を新築して移転した。
佐吉にしてみれば、発明の才能には恵まれていたものの経営には疎かったので、商才に長けた利三郎を迎え入れることは願ったりかなったりだった。
この頃の豊田は、佐吉が背水の陣で臨んだ栄生の織布工場が成功し、どうにか経営基盤を確立しつつある頃だった。栄生の工場は大正7年、法人化して豊田紡織株式会社となった。社長は佐吉で、利三郎は常務に就任した。佐吉は発明に没頭していたので、実際の経営は利三郎に任された。利三郎は、豊田グループの総帥として経営手腕を発揮した。
第一次世界大戦が、大正3年に勃発した。ヨーロッパが戦争で疲弊する中、日本は輸出を伸ばして大躍進した。大戦は大正7年に終了する。その反動で、大正9年には株式が暴落して恐慌に陥った。利三郎は、綿布の売却を迅速にして製品滞留を避けたり、減配を実施したりするなどして、難局を乗り切った。まさに商社マンとしての面目躍如だった。
豊田は、佐吉が上海に工場建設することを決め、大正10年に株式会社上海紡織廠を設立して、海外進出した。それに必要な資金は、数字に強い利三郎が本業をきっちり固めることで捻出した。
また、自動織機の大試験工場を建設することになり、大正12年に刈谷で大規模な工場を新築した。そして15年には、刈谷工場隣接地に織機製作工場を建設し、織機の製造販売を行う株式会社豊田自動織機製作所を設立した。利三郎は、初代社長に就任している。
利三郎は、理財に長けていながら、義理人情にも厚かった。こんなこともあったそうだ。恐慌に見舞われて、豊田紡織の取引先にも経営破綻するところがあった。その中の1人に染工場を営む青木直治という人がいた。青木染工所が資金繰りに窮しているのをみかねた利三郎は、なんと25万円を青木に貸した。今の金にしてみれば億単位の金額であったが、それを利三郎の個人名義でボンと貸与したという。利三郎とは、そんな男だったのである。
喜一郎と利三郎は、性格が全く異なっていた。自動車開発に関しては、推進派の喜一郎と慎重派の利三郎ということで、事あるごとに衝突した。だが、経営の才能は利三郎にあり、利三郎が慎重に経営の舵取りをしたからこそ、喜一郎も自動車にのめり込むことができた。だから、利三郎あっての喜一郎であった。〔参考文献『豊田利三郎氏伝記』〕
名古屋が戦争景気に沸いていた頃、好景気とは無縁(?)な男がいた。その男の名前は、豊田佐吉である。この年に佐吉は既に49歳であった。当時、佐吉は栄生で織布工場を建て、規模を拡大している最中だったが、そこで得られた利益は自動織機の開発に充てていたので、金はいくらあっても足りなかったようだ。
太平洋戦争後にトヨタ自動車を再建した石田退三は、大番頭として有名だが、当時は服部商店に入社したばかりの新人だった。大正4年(1915)4月、三井物産綿花部長の児玉一造の紹介で入社した。その退三が自伝の中で、佐吉との出会いを書き残している。面白いので、長文だが掲載しよう。
このやりとりの場所は、宮町である。宮町とは、現・中区錦3丁目10番地だ。本町と桜通の交差点に十六銀行の中部営業部のビルがあるが、その東南側である。
「大正4年の5月、服部商店へはいって間もなくのことだった。
ある日、皆が忙しく立ち働いている店先へ、古ぼけた小さな袋を手首にかけ、もそっとした格好のおっさんが1人はいってきた。物もいわず、だれにもあいさつせず、黙ってわたくしらのすわっている前の椅子に腰をおろした。店の者も別にかまわなければ、本人もいっこう平気な顔ですましている。なんとも不思議な光景だった。
新参者で様子の解らぬわたくしは、けげんに思うまま、お客さんですよと、かたわらにいた三輪(常三郎)支配人に目顔で知らせても、おやじさんの客だとばかりで、三輪さんの方でもまったく振り向かない。
いったい、何者だろう、この得体の知れぬ客は?わたくしも妙に興味をそそられるものがあって、いろいろ観察し、さまざまに想像をめぐらしてみたが、かいもく見当がつかない。とにかく、店の出入りや街から流れ込んでくる喧噪を知らぬ気に、椅子によりかかったまま、敷島(煙草)をふかして、何事かをじっと考え続けている。年齢のほどは50歳前後で、職業のほどもむろんつかみどころがない。なんにしても一種異様な人物である。
そこへ、外から帰ってきたのか、奥から出てきたのか、しばらくたって服部社長が、ヤアと一声かけて現れた。その人はちょっとしたお辞儀も返さない。
『いよう、今日もまたお金ですかい』
と社長。相手はべつに改まりもせず、少し顔をあげただけで、煙草片手に視線をそのほうに向けながら、
『そうですな、べつの話なんぞはない。こんどはちょっと大きい。25万ほど欲しい』
と、ぶっきら棒にいう。あとは知らぬ顔でそっぽを向いたままである。頼むとも、済まんとも、一言もいわない。社長も社長で別に余事に触れない。
『ほほう、25万円だって?そりゃあ仰山やな。まあええ、現金でのうて、手形を書くとしよう』
これで2人の要件は相済みになったらしいが、かたわらに様子をうかがっていて、わたくしはすっかり肝をつぶした。なにしろ、当時の25万円といえば、今日の何億円にも匹敵する大金、それをなんのために使い、何んのために用立てするのか知らぬが、こうしたどえらいヤリトリを、まったく事もなげにやってのける2人に目を見はった。
やがて、信玄袋へ手渡された手形をしまい込んだおっさんは、ぶあいそうにニコリともせず喫みかけの敷島を気忙しく火鉢に投げ入れ、何事もなかったようにノッソリ店を出ていってしまった。
このおどろくべきダンマリ劇にみとれて、しばらくわれを忘れていたわたくしは、さっそく、隣にいた三輪さんに小声で聞いてみた。
『ただいまのお方は、どなたさんで……?』
『なんだい、君はまだ知らなかったのか。あれが有名な発明キチガイの豊田佐吉という人なんだよ……』
ああして、次から次へと金ばかり引き出しにくる発明狂に対する、親父の際限ない後援にも困ったものだ、といわんばかりの顔つきで、三輪支配人は吐き出すように教えてくれた。
『ほほう、あれが豊田佐吉という人か』
なるほど、すこうし変わっているのも道理、おもしろい。きょうはとにかくえらい人を見てしまったと、わたくしは改めてその立ち去った方を眺めなおした。そして、1日中軽い興奮がさめなかったのである。」
(『商魂八十年:石田退三自伝』注・「キチガイ」という用語は現代では差別用語かもしれないが、昔の文章の引用のため、そのまま使用した。)
この年の夏、服部兼三郎は入社早々の石田に上海駐在を命じた。上海に着任してからの彼は、手ごわい中国商人を相手に持ち前の商魂・商才を遺憾なく発揮し、単身服部商店の主力品「双童」印の綿布を売りまくった。
服部商店は大正時代に入り、生産部門を次々に拡充していた。こうした積極策を可能にしたのは、何よりも海外市場の拡大、つまり輸出の飛躍的な伸びであった。
服部商店の海外市場開拓は、明治に三輪常次郎が単身中国大陸に渡り大尺布を売り歩いたのをもって嚆矢とするが、大正に入ると、石田退三など次の世代に引き継がれた。中国の各地に乗り込み、「双童仁斯」「太鼓」等、トップブランド品を大いに売り込んだ。
退三は、昭和2年(1927)までの12年間、服部商店(現・興和)で勤務した。〔参考文献『興和百年史』、『商魂八十年:石田退三自伝』〕
次のページ この年に誕生した会社 名古屋バナナ加工
Copyright(c) 2013 (株)北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所 All Rights Reserved
〒452-0805 愛知県名古屋市西区市場木町478番地
TEL 052-505-6237 FAX 052-505-6274