豊田喜一郎は大正6年(1917)9月、仙台での学生生活を終え、東京帝国大学工学部機械工学科に入学した。
東京に自動車が走るようになったのも、この頃からのことであった。自動車自体は、明治時代の末から輸入されていたが、大正初年までは台数も非常に少なく、実用性も乏しかった。アメリカを視察した父・佐吉からアメリカでの自動車の普及を聞いていたが、名古屋や仙台では、自動車を見ることはまれであった。
それが大正中期から急増して、大正5年に200台そこそこの輸入だったものが、7年には一挙に千数百台が輸入されるようになった。その多くが東京で使用された。
喜一郎が東京で学生生活を謳歌していた頃、実家の名古屋では緊迫した雰囲気になっていた。この頃、豊田で重要事項を話し合う時は、名古屋の袋町の料亭「弥生」がよく使われていた。その「弥生」で、大正6年12月初旬に会合が開かれていた。師走ではあったが、忘年会ではない。集まっている面々には緊張がみなぎっていた。
豊田の内部では、大正6年に入ってある問題が理由で意見が対立し、激しく衝突していた。ある問題とは、佐吉が言い出した上海への進出計画だった。
豊田紡織を法人化(大正7年)するなど、栄生工場で成功した佐吉は、次なる目標を掲げた。それが海外進出だった。世界に雄飛することは、佐吉の子供の頃からの夢でもあった。
この夢の実現に協力したのが、のちに「豊田の大番頭」とか「佐吉の分身」とまで言われた西川秋次だった。秋次は、佐吉に上海への進出を提案した。上海には既に日本の紡績工場が進出していて成功を収めていた。
佐吉は、その計画に賛成したが、それはちょっと風変わりな理由からだった。「私が上海に進出するのは日中親善のためじゃ。日本は中国から文学や仏教などいろいろなものを教えてもらった。だが、その中国に対して日清戦争などで迷惑をかけた。その中国に報いたい」というものだった。
だが、佐吉と秋次には、この上海進出に反対している人々への説得という大きな仕事が待っていた。佐吉の弟の平吉、佐助は強く反対していた。また佐吉を支えてきた古参の鈴木利蔵、岡部類蔵、大島理三郎らも不安がっていた。上海進出計画は、何度話し合っても平行線をたどるばかりだった。
佐吉の妻・浅子も、この上海進出については、大丈夫だろうかと懸念していた。その浅子に対して、秋次は「世界に雄飛するという大大将の子供の頃からの夢をかなえさせてあげてください。私は、大大将の行くところなら、どこでも行きます」と真顔で語ったという。
こんなわけで、料亭弥生での話し合いとなったのである。佐吉は、どうしても納得しない反対派を説得するため、パシっと障子を開け放って言った。「障子を開けて見よ。外は広いぞ」と。
カンカンガクガクの議論を重ねた末、佐吉の弟・平吉が「兄がつくった会社だからしようがない。お前たちもそれで承知しろ」と言い切って反対派を黙らせ、了解させた。
このようにして上海への進出が最終決定された。
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