丸美産業といえば、地元愛知県で、マンションではトップクラスの知名度を誇る会社だが、その創業は大正9年(1920)3月だ。
ルーツは、嶺木鐵次(安政生まれ)という人物にさかのぼる。鐵次は明治25年(1892)前後に一宮市起町小信で機織業を創業したが、大正9年に廃業した。大正9年は大恐慌の年だから、そのあおりを食ったのかもしれない。その次男が(しげる)だ。は義兄の近藤助三郎と共に材木商を名古屋市中区藪田町で開業した。大正9年3月のことで、これをもって同社の創業としている。は昭和4年(1929)に亡くなり、その後は近藤助三郎が経営を続けた。
の長男は一夫で、大正5年の生まれだ。一夫は、近藤助三郎が亡くなったため、昭和11年、弱冠20歳で家業を承継することになった。屋号は、丸美商会とした。
だが、戦争が一夫の人生を狂わせた。昭和14年に召集され、他に経営を任せる人がいなかったために家業の整理を強いられた。一夫は軍隊に4年間いて、上海、九江などを回り、昭和18年に帰還した。家業の木材業は廃業となっていたので、復員後やむなく軍需工場だった大同製鋼の熱田工場に勤務した。
一夫は昭和19年に再度召集され、今度はフィリピンに派遣された。ジャングルを1年間逃げ回る悲惨な体験をして生死をさまよった。また、捕虜となり1年半もフィリピンのバタンガス収容所に収容された。
一夫は、幸運にも昭和21年に帰還できた。友人と共同で合資会社丸美商会を名古屋市中区西川端町10丁目9番地(第二堀川沿い)で資本金18万円で設立した。一夫は昭和23年、共同経営を止めて独立し、丸美木材株式会社を資本金65万円で設立した。また、山林経営にも乗り出した。
事業多角化に伴い、一夫は昭和47年、商号を丸美産業株式会社に変更した。住宅総合商社としての基盤を整えた。御嶽山麓にて高原別荘地開発に着手して分譲開始した。また、マンション事業にも進出した。
昭和59年、世代交替期を迎え、一夫が会長に、長男の昌行氏が社長になった(現・会長)。昌行氏は大学卒業後に大手商社に入り、広い視野からビジネスを学んできた。同社には昭和43年に入社した。
昌行氏は、本業の材木業の限界を見通していた。そこでマンション事業にシフトするようになった。マンションでは、これまでの供給戸数が6千戸以上に及ぶ。
このように成長してきた同社だが、昌行氏は社長就任時を振り返って、こんな経営観を披露する。
「私は社長になった時に歴史上の2人の人物を研究した。1人は武田勝頼で、もう1人は徳川慶喜だ。2人に共通するのは、幕引きをしたことだ。勝頼は無謀な戦いをして皆を不幸にしたので、後世の評価が低い。これに対して慶喜は誰にも迷惑をかけずに徳川幕府の幕引きをした。2人の違いは、勝頼は武田家が目的であり、慶喜は徳川家を手段としていた。武田家、徳川家を企業としてとらえた場合、企業は国民を幸福にするための手段であって、企業そのものが目的であってはならないと思う。だから私は慶喜から学び、常に幕引きできる経営を維持することで、絶対に人に迷惑をかけないようにしようと誓った」
社長就任という若い頃に、既に〝幕引き〟を意識したというところが、筆者には驚きだが、昌行氏はさらに続けて言った。
「当社は規模を競うことをしなかった。だから地元のマンション業界でトップテンに入ったことがない。どんな時でも自己資本の範囲内で、身の丈に合った経営に徹してきた」
筆者は、丸美産業は愛知県のマンション業界ではトップクラス規模を誇っていると勝手に想像していたが、どうもそうではないらしい。規模を追わない、堅実経営こそ、同社の真骨頂だったのだ。
丸美産業のホームページには、決算書が載っている。貸借対照表をみると、自己資本が厚く、財務内容が抜群だ。まるで上場企業並みである。コツコツと積み重ねてきた年輪の厚みを感じさせる決算書だ。
本社所在地は、名古屋市瑞穂区瑞穂通3‐21である。
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