明治38年(1905)5月27日、日本海海戦が行われた。その結果は完勝。
28日午前1時、海軍省の大臣室では、海軍大臣の山本権兵衛が戦況報告の電報を受けた。
「連合艦隊は本日沖ノ島付近にて敵艦隊を要撃し、大いに之を破り、敵艦少なくとも4隻を撃沈し、その他には多大の損害を与えたり」
また、『坂の上の雲』の主人公たちは、この戦争で大活躍した。戦争の最中、母貞が病魔と闘っていた。家族から日本海海戦の勝利を知らされると、貞は本当に喜び、真之の帰ってくるのを待ったという。
貞は息子の顔を見ることなく享年79歳で永眠した。真之は間に合わなかった。真之は「母さん、アシは世の中のお役に少しはたてたんじゃろうか」と問うたが、答えてくれる母はすでにいなかった。戦場で多くの死を見てきた真之は、普通の精神状態ではなくなっていた。「坊さんになりたい」と頭を抱えて嗚咽する真之を、妻の季子が後ろから強く抱きしめた。
真之は同年、正岡子規のお墓参りをしている。子規が死んで3年が経っていた。
一時は仏門を考えた真之だが、帰国後、再び海軍大学校の教官となった。
第一次世界大戦の際には公務でパリを訪れ、大戦の進行と結末を予想してみせ、見事に的中させた。
真之もまた、子規と同じく短命であった。大正7年(1918)2月4日、慢性腹膜炎のために49歳で亡くなった。『坂の上の雲』では、枕元の知人らに向けて臨終の言葉を残している。
「みなさんいろいろお世話になりました。これから独りでゆきますから」といった。それが最期のことばだった。兄の好古は検閲のために福島県白河に出張中で、小田原にあつまっているひとびとに「ヨロシクタノム」という電報を打っただけであった。
好古は退官後、大正13年に松山に戻り、北予中学の校長を務めた。昭和5年(1930)11月4日、好古が71歳で亡くなると、知人らは「最後の武士が死んだ」と悲しんだという。〔参考文献『NHKスペシャル坂の上の雲』(NHK出版)〕
日本は、早くロシアとの戦争を終結させる必要があった。そこでアメリカに仲介役を依頼した。講和会議は、アメリカ東部のポーツマスで明治38年(1905)9月に開かれた。
交渉は難航したが、結局、ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し、日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないという条件で締結した。
日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。
この条約によって、日本は、満州南部の鉄道および領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算一年分の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。
そのため、締結直後、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。
国民は「気の抜けた山葵、小村が帰朝の後」などと、ののしった。小村寿太郎が帰国した時に出迎えたのは、長男と伊藤博文、山本権兵衛、桂太郎だけだったという。〔参考文献『NHKスペシャル坂の上の雲』(NHK出版)〕
ポーツマス条約の内容は、日本国民の多くが考えていた条件とは大きくかけ離れるものであった。長きにわたる戦争で戦費による増税に苦しんできた国民にとって、賠償金が取れなかった講和条約に対する不満が高まった。
9月5日、東京・日比谷公園でも講和条約反対を唱える民衆による決起集会が開かれた。日比谷に刺激されて、名古屋でも9月21日に御園座を会場にして「非講和愛知県民大会」が開催された。
日露戦争は終わった。だが、戦争の傷跡は大きかった。旅順攻撃に参加した名古屋の陸軍第3師団は、戦死者が4千人、負傷者が1万1千人に達した。
それだけに賠償金なしという結果は、ショックだった。日本は戦費の調達の多くが外国からの借金だった。賠償金なしでは、それがすべて国民負担となってしまった。まさに事実上の経済敗戦状態だった。それに対する怒りが政府批判に向かった。〔参考文献『NHKスペシャル坂の上の雲』(NHK出版)、『新修名古屋市史』〕
《1月》 1月1日に旅順が遂に陥落した。10日に名古屋市議会第8代議長に上遠野富之助が選任された。22日に「血の日曜日」事件がペテルブルグで起きた(第一次ロシア革命)。なお「血の日曜日」とは、皇帝ニコライに対する請願書を届けようとペテルブルグを行進した10万人の労働者に対して警官隊が発砲した事件である。25日に黒溝台付近において激戦が開始した。29日に黒溝台を占領し、ロシアを渾河右岸に駆逐した。
《3月》 3月1日に日本軍が奉天を総攻撃した。16日にクロパトキンが総司令官を辞任した。
《5月》 5月27日に日本海海戦に大勝した。29日にバルチック艦隊は全滅し、敵将ロジェストウェンスキー提督以下が降伏した。31日に日本政府は、駐米公使に「ルーズベルト大統領への調停要請」を訓令した。
《6月》 6月3日に米大統領ルーズベルトが駐米日本公使を招き日露講和を勧告した。
《7月》 7月30日に孫文が中国革命同盟会を結成した。
《8月》 8月5日に尾張紡績と名古屋紡績が三重紡績に合併された。10日に日露講和第一回会議がポーツマスで開催された。19日に日露講和会議は、ロシアの拒絶にて一時延期となった。20日に孫文らが東京で中国革命同盟会を結成した。23日に日露講和会議が行われたが、ロシアの拒絶により、まさに決裂せんとした。28日に御前会議が開かれ、日露講和談判の最後的譲歩条件をアメリカの小村寿太郎全権に打電した。
《9月》 9月5日にポーツマスにて日露講和条約が調印された。同日に日比谷で講和反対国民大会が開かれ、怒った群集が交番などを焼き打ちした。東京に戒厳令が敷かれた。11日に佐世保停泊中の軍艦三笠の火薬庫が爆発して、沈没した。 名古屋では、22日に非講和愛知県民大会が御園座で開催された。
《10月》 10月16日に名古屋陶磁器倶楽部が結成された。20日に連合艦隊が横須賀に凱旋した。24日に東郷平八郎大将以下が凱旋した。
《11月》 11月17日に明治天皇が伊勢大神宮に戦捷を奉告した。
《12月》 日本家禽協会が名古屋コーチンを新種と認定した。
佐吉は、武平町に小さな鉄工所を設けて、織機の製作と織布試験について研究を重ねた。自動織機の開発に巨額の資金が要ることから、開発資金を得るために、新たに「三十八年式」なる織機を製作して売り出した。これは半木製の織機で能率が高かったので、佐吉は増産のために、明治38年(1905)、名古屋市島崎町で工場を新築した。
この明治38年は、日本の織機と、外国の織機の比較試験が初めて行われ、佐吉の織機と、イギリス、アメリカの織機が比較された。場所は鐘ケ淵紡績兵庫工場だった。
比較試験は、合計110台の織機を据え付けて、1年間かけて行った。全国の織布業者が注目する中で、イギリスのプラット社が優勝した。豊田式は振るわなかった。
この時ほど、佐吉が悔しがったことはない。佐吉は、敗因を徹底的に調べた。その結果、織機の製作ならびに試験を他人に任せたこと、工作技術がまだ幼稚な段階にあったこと、設計そのものが十分でなかったこと、織機を扱う工員が不慣れであったこと、などが考えられた。この失敗から大きな教訓を得た。
後に『発明私記』の中で、次のように書き残している。
「此ノ如キ創造的ナモノハ、先ヅ自ラ之が製作ニ従事シ、深甚ノ注意ヲ払ヒ、幾多ノ実験ヲ重ネタル後ニ非レバ、到底完成セシム能ハズ。」
佐吉は、猛然と勇気を奮い起こし、研究に研究を重ねて発明を成功させた。それが緊張装置など、佐吉が完成した自動織機の最重要部を成すものであった。
また、喜一郎はこの明治38年に名古屋市立高丘尋常小学校を卒業して、愛知県立師範学校附属小学校(高等小学校)に入学した。
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