名古屋の経済は、明治38年(1905)になると、戦争好況に突入した。軍需部門はいうまでもなく、膨大な戦費が市中に流入して一般購買力を高め、好景気になった。日露戦争が終わった後も、戦後始末費が景気要因として作用し、日本銀行の利下げを機に、名古屋の株式市場は空前の賑わいを示した。
名古屋株式取引所の市況は、一言でいえば〝激沸〟だった。旅順の陥落、奉天の大勝に活況を呈したが、バルチック艦隊の東航・仏国の中立態度不明から見送りとなった。しかしながら5月下旬に対馬沖の大海戦の勝報により諸株一斉に激沸した。その後は講和条件悲観論・金利上昇等から落勢となり、10月の講和条約締結も響かず年を終わった。売買高164千株(前年比1・82倍)。〔参考文献『新修名古屋市史』、『名古屋証券取引所三十年史』〕
国際競争力の強化を目指して繊維業界の再編も進んだ。東海地方には、紡績会社が乱立していた。いずれも小規模だから、国際競争力の強化のため合併が望まれていた。尾張紡績(奥田正香社長)と、三重紡績(伊藤伝七社長)の合併がまとまり、そこに名古屋紡績も加わっての大合同がまとまった。この大合同は明治38年(1905)に実現した。名古屋紡績は「三重紡績名古屋分工場」となった。尾張紡績は「三重紡績尾張分工場」となった。
この三重紡績は、その後に大阪紡績と合併し、東洋紡へとつながっていく。〔参考文献『新修名古屋市史』〕
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