山田才吉は、守口漬の考案者で、若宮神社西門のすぐ北隣で喜多福という店で売っていた。
漬物の販売で巨利を得た彼は、その資金を元手に、明治17年(1884)に缶詰製造工場を作った。魚介類を中心とした缶詰は順調に売り上げを伸ばした。日清戦争が勃発すると、陸軍は外地での保存食として、缶詰を使用することを決め、才吉に発注した。
缶詰製造で得た資金で、彼は途方もない建物や施設を造ることにそそぐようになった。
彼が最初に手がけた巨大建築は東陽館だ。明治29年、丸田町の交差点付近の広大な地に高壮な本館と、大きな庭園の中にいくつもの小亭を構えた娯楽施設の東陽館を竣工し、明治30年に開業した。だが、残念なことに、明治36年、出火によって東陽館は炎上した。
しかし、彼は莫大な資産を形成していたので、次の巨大建築物の南陽館建設にとりかかった。港区東築地五号地(現在の東築地小学校付近)で、明治43年に名古屋教育水族館を開館した。だが、そこも台風で倒壊してしまった。
大きな建物を造りたいという才吉の執念は、異様なものだった。才吉は、今度は火事にも、台風にも倒れない日本一の高さの大仏を造ろうと計画し、大正4年(1915)に東海市で聚楽園に鉄筋コンクリートの大仏を造った。それが今日でも残っている、あのコンクリートの大仏である。
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