読者諸兄は「松風屋」という名前の老舗菓子会社をご存じだろうか?
松風屋様には失礼ながら、ほとんど無名に近いかもしれない。それならば洋菓子の「フーシェ」は、いかがだろうか? ギフトとしてもらうことが多いので、誰でも知っているに決まっている。少なくとも、見れば分かるはず。「フーシェ」の包装には「松風屋」という文字は一切出ていないが、それを売っているのが「松風屋」だ。
松風屋は明治33年(1900)の創業。創業者は、安政3年(1856)生まれの近藤政治と妻こまであった。場所は名古屋市中区正木町だった。創業者夫妻の写真は残念ながら残っていない。作っていたのは「松風煎餅」という駄菓子だったらしい。
夫妻には、きぬゑという養女がいた。大正3年(1914)には、芳松が婿養子になって二代目になった。この二代目は、大正12年に菓子の卸売部門を開設し、卸売業へと業態転換した。商いを伸ばしたが、戦争になると菓子業界は企業統制令により一斉に休業に追い込まれた。
そして終戦を迎えた。その頃は長男の琢三(大正6年生まれ)が28歳になっていて、三代目が中心になって再建を目指した。この琢三は傑物だった。名古屋の鷹匠町(現・西区城西)において、菓子卸売業を再開した。当時はもの不足だったので、ヤミ屋に売れば大きな稼ぎになったが、あえてそれをせず、もっぱら百貨店へのセールスに努めた。この営業活動が、その後の会社の基盤を築くことになる。
また、戦後はGHQがチューインガムを持ち込んできた。それを目ざとく見つけて製造に乗り出した。現在は明治製菓との合弁で明治チューインガムという関連会社になっている。
琢三は、昭和33年(1958)にフランスに商談に行った際に面白いものを見つけた。「ぐるぐる回るお菓子の販売台」だった。これを百貨店に提案したところ採用されてブームになった。
当時の松風屋は、有名菓子メーカーの商品を扱う百貨店専門の問屋業だったが、琢三は自社ブランドの商品を持ちたいという悲願があった。その夢を叶えたのは、長男の雅夫だ。雅夫は、欧州訪問中にフランス菓子の老舗フーシェ社と出会った。そのフーシェ社と提携して「フーシェジャパン」を設立し、日本でその商品を売ることにした。雅夫氏は当時専務だったが、昭和61年に社長に就任した。
それから中興の祖であった琢三は、平成11年(1999)に亡くなった。
松風屋は、フーシェのほかにも、京菓嵯峨野松風、尾張松風屋、B・B・CHOCOLATなど多彩な商品を持っている。だが、実は自社で生産しているものは一つもない。すべて仕様書発注で協力工場に生産委託している。商品企画力で勝負するファブレスだ。全国の百貨店のほとんどで売り場を持っているから、小売業の機能ももつ。
百貨店チャネルのほかにもその企画力を活かして国内のテーマパークなどにPB商品の供給も行っている。現在では、正社員250人のほかに、数百人のパートタイマーを雇用する企業になっている。
本社は、名古屋市中区千代田5‐16‐29。
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